ベトナム3

ネギだくフォー屋さんでいつものようにフォーガーを頼み、満腹になって支払いを済ませるときに、覚えたての「んのーん」(美味しい)を使う。

店を切り盛りするおやじとおばはんは夫婦と思われる。おばはんは愛想よく笑いながら何事かをまくしたて、おやじはむつりとしながらじっと頷く。私もつられて頷きつつ、なにかコミュニケーションをとりたくなって自分を指さしながら「ジャパン」といってみる。

すると、おやじの顔がぱっと明るくなり、ずっと言う時を待っていた、というように、「しんぞー」と声を張り上げる。

「??しんぞー?」

「ジャパン、しんぞー。ビエットナム、ホーチ・ミーン」

「アー、イエス、しんぞー・あべ、ね」

と答えつつ、それは違うだろうよと思う。さすがにホーチミン氏とは違うだろうよ。

日本における近代日本の建国の父的な人って誰なんだろう。坂本龍馬?いやそれはさすがに夢見がちだろうかね。などと思いながら商店でビールを買って帰宅した。

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彼はその後も私を見ると「しんぞー」というので、3回目に私は自分から「しんぞー」と名乗るようになった。違うだろよ、わたし・・・

ベトナム2 

ベトナム(ハノイ)版つけ麺と聞くブンチャーなるものを食した。昼ごはんに食べることが多いというこの風変わりな名前の麺は、その中身も風変わりだった。

まず大きなどんぶりに人参と大根の浮いたコンソメスープのようなものが出てきたのでこれがつけ麺の汁だと思ったら、実際そうだったのだが、すすってみて違和感。つめたく、酸っぱいのである。酸辣湯麺のような酸っぱさではない。酢漬けの味である。酢漬けを薄めた液体の底には細かくニンニクが沈み、ぽちぽちと浮かぶのは刻み唐辛子。人参をすくい上げてかじると淡白なキムチのようである。

それからふだんは生春巻きの間に入っている春雨みたいな米粉の麺が、ほぐされることもなく、もりっと供されて、それをこの酢漬けスープで溶いてほぐし、上にパクチーやらシソやらオオバやらレタスやらを盛る。最後にバーべキュー肉と肉団子を乗せて、ほぐれた麺と一緒にすする。バーベキューの時の脂っぽいにおいが服の表面に乗り移る。

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麺を食っているという感覚はなかった。代わりに、生春巻きの中身を広げ、酢漬け野菜とコリアンタウンのプルコギを乗せてむしゃむしゃ食べているという感覚があった。ああ、なるほどすでに私はこれを韓国料理と認識しているのだな。

なかなか新しい食べ物であった。

ベトナム1

ニャクニョク!!とすごい剣幕で何かしら断られ、それは街路に出た露店の大釜を覗き込んでいた私に対する完全なる拒否であったにもかかわらず、私はそれさえもなんとなく幸せな気持ちだった。

埃と糞尿の入り混じった街路のにおいはすっかりしずまり、停滞した風が夜のにおいをかぶせ、しかし露店から立ち上るのはまだ熱っぽい湯気で、この町の熟した夜感が、それだけで私をシュワシュワと泡のように満たしていく。

ここは、たくさんのなんとなくで構成されている。なんとはないにおい、なんとはない気持ち、なんとはないワクワク、ときめき、夜のちょっとだけ悪い風。私の表皮を取り囲むたくさんのなんとなくに研ぎ澄まされて、私はやっと、確固としたものを見つける。それは記憶だったり、言葉だったり手触りだったり、いや単純な喜びだったりする。

ベトナムはハノイ風つけ麺をあらわす「ブンチャー」というものに興味をひかれて夜の街に歩き出したものの、肝心の単語「ブンチャー」を忘れてしまった。仕方なしに、しらみつぶしに街角の大釜を覗き込んでいたら、激しい勢いで叱られたというのが冒頭のニャクニョク!!だ。

大釜の中には明らかにスープが煮えたぎっており、近くには刻んだささみ状の鶏肉がある。ここは確実にフォーガー(鶏のフォー麺)屋さんであるのにも関わらず、そこの小母さんが「フォーガー?フォーガー?」と馬鹿の一つ覚えで繰り返す私を完璧に追っ払ったのは、なんだろう、単純に通じていないのか嫌がられたのか?それとももう店じまいとか?

 

こんなこともあるよなあ、と私は車道に降りた。側溝に泥っぽい水が溜まっているが、夜闇に沈んでその粘度はたしかではない。私の鼻はその側溝にドブのにおいを探し、かすかに見つけてふっとほころぶ。ベトナムの夜の街の、夜っぽいにおい。

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角を左に曲がって小さな路地を入ると、白い逆光にこうこうと照らされた小母さんが、道に座して煙草のボックスを積み上げている。小母さんの後ろの光のもとに、ふたたび大釜を見つけた私は、フォー?と聞く。までもなく黄色いのっぺりした看板に、「フォー・ガー」と書いてある。

大釜を覗き込むと今度の小母さんはにこやかに笑ってどんぶりを取り出す。ついでに5万ドン札を取り出す。250円だ。もらった。

ラッキョウの柄やエシャロット、アサツキなどのネギ類の乗ったネギだくフォーは、出汁がさっぱりあざやかで、ううんとうなる私を道にじかに置かれた扇風機が吹き飛ばす。ゴオッというこぎみよい音。ふくふくと満腹感がふたたび泡のようなたしかな幸せを連れて、よし、ここまで書いたら私は腹を出し、ムーミンのように仰向けになってベッドに寝転がろう。

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風呂雑徒然草

風呂に入りながら考えていたことを徒然なるままに。

1-翻訳をやっていて

歴史を学びたかったんだなあという、10数年前の話。でも流されるままに法学部に入って、あとはご案内のとおり、紆余曲折を経て今に至る。
今の時代でも十分に何がほんとで何がほんとじゃないかがわからないのだから、昔の時代についても調べるなんて大変なことだ。

2-名前をつけると病気になるっていう話

ちょうど半年前に、バングラとか東南アジアでは人と違う人に病名をつけないから病気じゃないって話をした。そしたらさっきどこかで流れてたラジオで同じようなこと言ってた。タイでは「徘徊に寛容」なのではなく「徘徊」っていう感覚があんまりない、って話。

3-

あともうひとつ、まとめようと思ったことがあったんだけど(風呂の中で)、忘れた。いろんなことが頭の中に去来して、大事なことはすぐ通り過ぎ、こぼれ落ちる。残ったことが結果的に大事なことなんだろうけど、ついこぼれ落ちた方にばかりね、気が向くのですよね。あーあ。

といって、ふと後ろを見ると携帯が放置されているのが見える。

しばらく携帯をいじらないでいると、それが何か美味しいものをいっぱいふくんで重くなってるような風に見える。来ていない返信とか、思いがけない便りとか、そういうのを。

4-思い出した。歴史の話だ。

今、歴史の本の翻訳をやっているのだけど、たまたま担当が中国・アジア史(宋~元)でした。

それで、宋の社会・文化の部分を訳していて、あーなるほど平和だったからこういう文を武よりも尊ぶ風潮があったんだねと思ったのが初めの印象。

徽宗っていう皇帝は「風流天子」と呼ばれた、なんていって、皇帝自らが書いた御絵なんかも掲載されていて、すげーなーと思っていた。すぐれた画家のパトロンになるのみじゃ飽き足らず、自分自身が後世に残る絵を書く(それが皇帝だったためかほんとうに当時からクオリティが高かったのか)っていう芸術肌の君主が、いるもんだなあと感動したりして。

そういうボンクラ君主は平和な時代にしか生まれない。戦乱の世では君主が国の統治をほっぽって絵を書いていて、しかもそれがけっこうガチでっていうことにはならない。平和な時代は、いろんな内なる批判を(アフリカの子供たちが飢えているから不謹慎だとか、今日もどこかで戦争が起こっているだろうから不謹慎だとか、そういう批判を)まずは置いて目の前にある本質を突き詰めるという一見無意味な活動に従事できるわけだな。働いているのではなく、遊んでいるように見える人びと。動いているのではなく、考えている人びと。

「宋の時代の文化は、装飾をそぎ落とし物事の本質に迫るものだった」っていう。

などと、感心しながら訳出を進めていったところで「金の侵略と宋の南渡」

宋最後の皇帝となった徽宗は、金の侵入を受け皇帝位を息子に譲ったが、結局金に都を落とされ、拉致られてしまう。徽宗以下、皇族のほぼ全てが連れ去られ、彼らが再び中国の地を踏むことはなかった。女性皇族はなんとか院という場所に入れられ、娼婦になることを強要された。

って、徽宗は物事の本質には迫ったが、家族すらも守れなかったのだ。

ここが平和な時代でも向こうは平和な時代ではないかもしれない。そして二つの世界の境界はあいまいだ。北方からの流入派、異世界ではなく、つまりここだけが世界じゃないのかもしれない。そんなことを思ったのだった。何がほんとうかわからないけど、歴史の本を読むのは楽しい。過去形で語られていたところが突如として現在形になり「宋代の白磁と唐代の唐三彩を比較して欲しい、今の世の君たち」というような呼びかけが生じたりする。そのたびに私は現実に引き戻されて、ああ、今と過去はつながっているようで断絶しており、いやしかし断絶しているようでやはり、脈々と流れ続いている、などと思う。

帰国の黒

「気温は、摂氏、5度」
と、平坦なアナウンスが流れて、摂氏という言葉を聞くのは飛行機の着陸時くらいだなと思う。

羽田の手荷物受取場は深夜帰国の乗客たちでごった返していて、サンフランシスコ、ドバイ、マニラ、電光掲示板に列挙された街に思いを馳せる。
ここにいる人たちは、いろんな国のにおいをまだつけている。においはごちゃっと混ざって、でもそのにおいの余韻から抜け出す寸前の、人びとの高揚と安堵もまたごちゃっと混ざって、税関出口の前に垣根を作る。さあ、東京だよ、東京だよ。

「帰ってきて一番驚いたことはなんですか」
長いこと外国に住んで帰国した人に聞いてみたときの、答えのひとつに「到着したとき、みんな髪が黒くて驚いた」というのがあった。
髪の黒さというのは比喩に過ぎず、日本人の同質性が空港で一層はっきりと見える、ということだと思うが、うん、たしかに、上から見た手荷物受取場は、黒かった。

帰りの電車で偶然友人を見つけた。私はどうやって匿名・無作為の集団を認識しているんだろうなと、帰り道に考える。髪の黒さ、かあ。

日常の中の旅

乗換案内でバスや電車の時間を調べず、
ただ家を出て、バス停に行ってバスを待つ。すぐ来れば乗るし、なかなかバスが来ないときにはちょっと歩いて次のバス停まで行く、商店やコンビニを冷やかす。道路標識を読む。
路傍のベンチに座って白く硬い今日の空を見上げる。まるで石が敷き詰められているようだ。重いな。重い。ブーツのかかとを鳴らし、また立ち上がる。

そうやって結局、目的地まで歩いて行ってしまう。途中の古本屋で徒然草を買った。あれ、目的ってなんなんだっけ?

帰国は灰色の午後

品川駅の高輪口を擦るようにぴんと伸びた国道15号線は、午後を過ぎた灰色の空の下で心ぼそい。目に映るもの何もかもがどんよりと明度を落とし、つられて私はまぶたを少し重く感じようとしてみた。ついでにポケットに手を入れて下を向いて歩きたいけれど、出張帰りのスーツケースがそうさせてくれないので仕方なく、前を向いて歩く。
今日の空気の肌触りは、きりきりとチクチクの間くらい。寒さはまだ痛みではなく、マフラーは風に耐えている。それでも私はこの空の灰色のあまりの心寂しさに、あたたかい場所に近づきたい、少しでも、と思った。

帰国に違和感がない。
あたたかい場所は楽だけど、外縁を失ってしまいそうになるので、冷たい場所でぴりりと確かめなければならない。そう思って、久しぶりの日本の冬に雪が降るのを心待ちにしていたのに、よりにもよって東京に雪の降った夜から南国出張であった。もどかしさも悔しさも、自分のせいでもないのですぐに流れ去る。
冬に出会うのはまた来年かしらね、そう思った瞬間に忘れた。

羽田に帰ってきて飛行機を降りて、ああ冬ね、と思って、京急でそのまま本の続きを読んでいるうちに「帰国」は終わった。身体は東京になじみ、私はただスーツケースを持って京急に乗ってる人だった。

 

スーツケースを引きずって駅から歩く帰り道、坂道に札が建っていた。坂の名前とその横に説明、「江戸時代この坂は、大名の下屋敷にのぼる坂でした」。
道路やマンションや、ちいさな公園がある場所にその昔、大名屋敷が建っていたのかあと流れで想像してみた。それが数百年のうちに取り壊され、震災で焼け戦争で焼け、国土改造計画で改造され、バブルとかもろもろで違う場所になってるわけだ。すれ違った二人組は日本語をしゃべっていなくて、東南アジア系の顔つきをしていた。
人は移り変わり、地盤はここにずっとある。ほんとうに?
灰色の空は人の地盤を心もとなくさせる。やっぱり私は早くあたたかい場所にもぐりこんで、守られるべきだ。

家に着こうとしたとき、お隣さんが出てきて、こんにちはと言った。私もこんにちはと言った。路傍に目をやると白いテトラポットのような盛り上がりが見えて、それは凍ってところどころ黒ずんでいる雪だった。雪、5日前の冬の名残り。
7度踏みしめてもゴツゴツという鈍い音が腰に響くだけだった。8度目でやっと、かかとがさくりと気持ちのよい音をたてた。雪の残りを踏みながら私は、冬はここにはなかった、と思った。冬は、ここにはない。心がすこしぐちゃっとしていた。いろんなことに平気な顔をして生きるのに疲れたのだ。

新春とんち

日本で元旦を迎えるのは実に8年ぶりだった。

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大事な友人が一時帰国したというので、カウントダウンがてら飲んできた。多幸感があり、それはどこからくるんだろう、って考えて、元旦をねむる。初夢をけむにまき、現実をたべてまぶたをひらく。

初詣してハシゴして、朝の9時に飲み屋を出たとき、かーっとまだ新しい太陽が、通りを橙に照らしていた。
そのときはっと、この1年間むにゃむにゃと思っていたことの、答えというか一つのあり方が見えたような気がした。帰る場所とは居場所であり、居場所というものは自分が居場所だと思えば居場所なのだろうなと。

居場所を作らないようにしていたのだろうなと思う。
身軽になりたい時期というのはたしかにあって、私はたぶんそれが長かったのだけど、身軽になることでより本質に近い場所に身を置けるような気がしていたのだ。自由と孤独はセットで、孤独の闇の中に研ぎ澄まされる思考がある。うん。それはきっと嘘ではなくて、しかし、私たちが対峙するものはそれだけではないのだ。

1年の頭に立てたとんちのような問いが1年経ったところで解ける(ような気がする)っていうのはなんて、なんていうことなんだろうなあ。
・圧倒的なもの。絶対的なもの。きちんと人生を生きていくということ。
・やさしさについて。人と違ってもいいのだということについて。
・場所はそこにあるのだということ。

まだ新春の酒が抜けてないけれどそれでもよい。生まれ変わった気すらする(それはうそ)。
今年はきっといい1年になる。そんな風に酒占いが言ってる。

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師走コール

12月のカレンダーを見ながら。
テーブルマウンテンのような台形状の山の上から、するんと落ちそうな気持ちになっていた。「師走!」「師走!」
コールが怖い。12月の、ひとを焦らす感じがえぐい。

でも次のカレンダーを開いてみると1月はふつうに、当たり前にやってきて、月曜日には仕事もあったりして、時間は延びていく。人生はつづいていく。悲しいことやつらいことがあっても、そう簡単に止まってはくれないし、時は淡々と流れる。時間の流れ方は相対的だけど、流れていく時間というのは絶対的だ。
台形状の山から落ちて、次の台形状の山のうえをまたするするとすべり始める。生きるというのはそういうするするすべりの積み重ね、なのかなあ。区切りなんてねえ。

去年今年貫くなにか得体のしれない大きなものへ。生かしてくれて、ありがとうございましたー。来年も生きてやる。

国の容姿

きのう、国を男に例えるのがなさんとの間で5分くらい流行ったんだけど、
シンガポールは条件はいいけど粗野な不細工とか(スイマセン)、
スペインは容姿がいいから許せるダメ男とか(スイマセン)、
なんにせよなさんは別れる直前の彼氏みたいな感じでシンガポールを語っていたが、
それでいうと日本はそこそこ金のあるいいおじさん(でも20年後には介護確定)って感じなんでしょうな。

安心感ってなんだろうね。