サモア人の多くは、今でも伝統的な「壁のない家」に住んでいる。家っていうか、葉っぱで葺いた屋根の下っていうか。雨よけの空間っていうか。形としては東屋とか草庵とかそんなところだけど、それは休憩とか思索とかの場所ではなく、れっきとした居住空間だ。サモアの人はこの空間をファレと呼び、この中でたべ、ねむり、生活をする。
一晩めは私もびっくりした。草屋根の下に、一組のせんべい布団が敷いてあるだけ。夜になると屋根に蚊帳をつるして眠るらしい。雨が降りこむときはすだれをおろすらしい。え、荷物は?雨は風は?虫は?セキュリティとか、プライバシーとかいうものは?
それが不思議なことに、すぐに慣れてしまった。どころか、すごく心地よく感じるようになった。
夜になると蚊帳を揺らす夜風が波の音を運んでくる。隣の布団から聞こえる寝息に重なる。私は蚊帳から顔を出して満点の星空を見上げる。雨が降ってきたらすだれをおろし、雨が上がるとすだれも上げる。さやさやと風が揺らす。
心地よい波音の中で眠っていると、ふいに朝日がさしこむ音がする。それは目のさめるような金色の音。世界が入れ替わる、がらんという音。
朝は海に潮が満ちている。私は着の身着のまま、ファレの上から海の中へ飛び下りる。服は昼間の強い日差しですぐに乾くから、私は何も気にしなくていい。水着なんてなかったであろう時代のことを思う。
朝の海はひんやりとして、まっしろな朝日の中で海面がきらきらと輝いているのがみえる。夜の小雨で泥がかき回されたのが、すこしずつ、すこしずつ、落ち着いていくのが皮膚に分かる。ざぶんともぐって身体を潮の行き来にあずける。世界は明るい。
海の中にはつめたい水とあたたかい水があり、その境界のところは、すりガラスのような、鏡のような、焦点がおぼつかない世界になっている。どこでもない場所のような気がしてどきどきする。
昼間はファレのへりに座って本を読み、潮が引くのを待ってまた海にもぐる。いきいきとした色とりどりのさんご。枝の先がまるで宇宙空間のように蛍光の青に、ちかちかと光っている。黄色い魚がすうっと行き過ぎる。
「ここ、サンゴのジャングルだよ!」
遠くから声が聞こえる。
太陽の光を受けてさざめく水面のひだや、
ゆらゆらと身体の中身ごと揺れる心もとなさや、
波しぶきにかき混ぜられてクリーム色がかってくるエメラルドグリーンの海原、
波にあおられながらくるぶしまで海底にうずめたときの、ひんやりとした砂つぶの微細なうごき、
ときおり日の翳るごうんという音に、水平線に目を凝らすと沖のほうに円柱形の灰色ぐもがあってそこばかり雨の降るじゃあじゃあという音が響いてくるような気配、
翳りの音は去り、ふたたび真っ白な太陽が波間の魚まで見えるくらいに、海を透き通らせる午後。
そんなものにつつまれている。
海を上がりまた本をひらく。バナナやココナツの、葉ずれのさらさら、海と陸の境目。ココナツの実の落ちる乾いた音が、きまぐれな太鼓のようにボスムと鳴る。
ここにいるあいだにたくさんの本を読んだ。その多くはここで/ここについて書かれた本だった。
最近まで文字でものを残してこなかったサモア人だが、ここを訪れた(主に)ヨーロッパの人びとがサモアやポリネシアを舞台にして書いた作品は多い(表現を文字に限定しないのならばゴーギャンだってタヒチを絵で描いているし)。
ここは、この海は、「ポリネシアという大世界」。みんな、この海に来て、まるで山にかじりつくような、絶望的な気持ちで、この、ことばにならないものをなんとか、表現してみせようと、必死に挑んで切り崩そうとして、結局は言葉でないものに頼るほかないということになるのだとしても、それでも言葉でしかあらわせない人びとは彫刻の中に魂を彫るようになんとか、人間の話をして、なんとかがつがつと、書いたのだろうなと思った。
ここに生きていると、ことばであらわせないものの方が圧倒的に大きすぎて、言葉のかたちにすることの方が冒涜のような。
でも外の人(特に自然に挑み続けている西洋の人)はそれを本にしようとしてしまう、で結局私はそれを読んでしまう、アーカイブするということそのこと自体にも意味はあると私はポーネグリフを信じる側の人間ではあるんだけど、これは本当に言葉にすべきものなのだろうか、というとそれは本当にわからない。そんなことを思う。
人間の話にせざるを得なかったのもかもしれん。切り崩すことをどこかであきらめて、そこで生きる人間の話に託したのかも。多くの人がそうするしかなかったのかも。
夕方になってふたたび潮が満ちてくると、ファレから満潮の海へと足を垂らしてビールで乾杯した。足先に、海のおもてがさわりそうでさわらなくて、じんわりとした海の気配があった。
サモアのサバイイ島にいるあいだはずっとファレで過ごした。サモアを出てフィジーに来た一晩め、ホテルの部屋には波の音がしなくて、夜風のそよぎがなくて、空気の流れがなくて、石の箱の中に閉じ込められているような気持ちになって、なんだか落ち着かなかった。空間のとらえ方が、ファレ前/ファレ後で変わってしまい、パパラギ/脱パパラギを行ったり来たりしているみたいだった。
ホテルの壁には、青い海の絵がかかっていた。
ファレを去った今、すでにあの暮らしが恋しい。