7-タンザニア(ジャカランダとキリマンジャロ)/ Tanzania

それにしても、「もう行けない場所」が増えたものだ。

世界が閉ざされていく向こうで、その場所に付着していた記憶までもが霞んで、泡になってぱちんとはじけ飛んでいくような気がする。記憶なんてもとから泡のようなものに違いないから、いつか消えてしまうのは仕方ないのだけど、でもそれが今消えてしまうと、私は物理的にも、頭の中でも、対岸へ渡る橋を失うように思えて、それがちょっと、なんだろう、ちょっと早く来すぎたような気持ちだ。

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肉の焦げるにおい。すこし寒い高地の朝もやに、まぎれてただよう新しい土のにおい。

空に溶けるジャカランダの花。
アフリカの平原の土埃を、髪の中に入れてそのまま、どこまでも持って帰りたい。

もう1年以上も前、最後に足を運んだタンザニアを去るときに私は、そんなことを思っていたらしい。記憶のすみでさっとはじけ飛ぼうとしていたジャカランダの、青みをおびた媚薬のような紫いろが、とつぜん蘇ってびっくりする。

ここを去りたくない、ここの痕跡を身体に取り込んで帰りたい。忘れたくない。そんな強い気持ちを私は現在に、連れ帰っていたようだった。

 

 

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キリマンジャロ空港発の国際便は、離陸して高度を上げた後、一度ぐるっと旋回してから北へ飛び去る。まずは進行方向左側の乗客が、翼の向こうに見えるキリマンジャロの三角と並走し、次に右側の乗客が、キリマンジャロのまるい頂を覗き込む。

はじめの三角は飛行機の翼の先。かるく白い雪をかぶって雲の上に盛り上がり、飛行機の進みとともに翼から引きはがされていった。そのあとに、茶色い三角が続いた。

機体が旋回すると、さし込む西日の角度が変わった。今はきっと右半分の乗客がキリマンジャロを見ているのだろう。高度を上げた機内にシートベルトサインが消えたときに、私はふたたびキリマンジャロを拝もうと右側の席へ移動した(機内はガラ空きだった)。

 

窓の外に山の形はなかった。

慌てて見下ろすと、茶色いクレーターが、まるく3重になっている。その一番外側の円の、縁から、白い雪がこぼれ落ちていくように、幾重にも筋を描いて垂れている。山の、上がとがっているのではなくまるく、円になっていること、穴のようになっていることに私は心底はっとした。山は、△だ。というのが、ふっと覆った。山は△であり、頂上にはその山の生まれる元が出てきた場所がある。

もう10年も前に、エベレストという△を見た。それはブータンからバンコクへ向かう飛行機で、私はバンコクを舞台にした豊饒の海③を読んでいた。友人は窓越しに一眼のシャッターを切っていた。私は10年前のそれに向かって、スマホでキリマンジャロの写真を撮り続け、それが視界の端から消え去った後もぽかんとからっぽな青い空を眺めていた。

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あのフライトの中で英語で読み始めたせいで、結局1章で挫折したカレン・ブリクセンのOut of Africaを、英語で読むのをあきらめた私は今は日本語で読んでいる。彼女がトラックにコーヒー豆を積んでガタガタと、キリマンジャロ麓の農園からナイロビへ向かうシーンを、私はなぜか空から見ている気持ちで、読んでいる。どうやらこれは100年も前の話なようである。

空から見る人間世界の解像度は異様に高く、山の稜線に張り付くようにして暮らす人々の生活の、こまごまとした動きまでも見えるような錯覚をおぼえる。コーヒー豆を積んで山道を行くトラックに今も、私という豆ほどの大きさをした人間が一緒に飛び乗っているかのように思う。

そんなおかしなことを思うのはおそらくそこに、願いを込めているからなのではないかという気持ちがする。空まで離れても遠くないと思いたい気持ち、私は今も地続きの人間世界を生きているはずだと思いたい気持ちを、空にある記憶の中にふくんでいるからではないかと思う。

100年を経た、橋向こうの対岸の記憶を今、読んでいる。その世界で書かれ、そこについて書かれた言葉を読んでいる。書き手の記憶はすでにはじけ飛んで空にあるはずなのに、彼女はジャカランダのはえる土のにおいを今になって、私に記憶させる。私の持ち帰ったものと混ぜ合わせて、とても鮮やかに。
場所に付着した記憶への欲求が、こんなにも強いものだと本当のところは分かっていなかったのだ。

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