4-デンマーク(どんぶり?)/Denmark

私はいままで訪れた場所で出来ている。その集合体を記憶というのはあまりにもったいない気がして、コペンハーゲンの昼下がりを歩きながら、皮膚のひだに入り込んだままのほかの町のにおいをそのままにしていた。なにも動かないように。なにも感じさせないように。すべてすきとおってからだを素通りしていくように。

最近よく思うのが、言語化されていないモヤモヤふかふかとしたものを、それは感情だったり会話がはだにまとっている空気だったり自分の外縁そのものだったりするのだけど、それをことばのかたちにしてしまうともう二度と、元のモヤモヤふかふかには戻れない。だから言語化は、初雪に刻印する足あとのように、雪の平面性やそのしずかな純正さを破壊するものでもあり、あたたかい夢が冬の朝にサックリ切られるような。そんな感じにおもえた。

「それ」を言葉のかたちにしてしまうのはとてももったいない、それはいましかここにないもの、もしかしたらあの朝のまどろみのようにこのまま保持していられるかもしれないもの、流れて消えてしまうならそれでもいいもの、というような気持ちが自分の内側ですごく流行っていた。

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コペンハーゲンの町から電車に乗って北上して、ルイジアナ美術館に行った。
北上する電車のなかはとてもしずかで、私たちはコーヒーをすすりながらすこし言葉を交わした。途中駅で降りると空気がとつぜんすきとおって、ホームの裏手に雑木林が生えた。でもそれは、私たちが電車で瞬間移動してきたから変わったように見えただけで、雑木林も、林がまとう清冽な空気も、ずっとそこに、そのままであるのだ。そこで私はその、そのまま感を、そのまま楽しむことにした。

美術館内はとにかく盛りだくさんで、帰り道ではとうてい整理しきれなかった(いま思い返すと一番残ったのはジャコメッティの手書きスケッチだけど)。それで、整理しなくてもよいのだと思うことにした。じっさい、整理しなくてもいいのだ。
私の内側はブラックボックスになっている。たくさんの場所を詰め込んで、いずれ出てくるものが何なのかは分からない。何も出なくてもいい。

すべてを言語のかたちにしなくてもいいのだと、ふいにわかった気がした。すると楽になった。でも私は今までどうしてこうしてかたちにならないものを(主に言語化して)外に出すことに固執していたのかと思うとそれも理解できて、自分の中に入ってくるものをごった煮で自分の中に保持しつづけているのがそれはそれで気持ち悪かったからだ。とりあえずすっきりしたかった。ごった煮に耐えうる器(どんぶり?)を持たなかったともいえる。

sdr
ということで語りつくすのはもったいないけれど、少しだけどんぶりからあふれた部分のコペンハーゲンの話。
この町には以前も来たことがあったが、ゆっくりと午後をかみしめるように歩き続けていると、まったく違う町のように思えた。昼すぎに町を濡らした小雨は午後が下るにつれてうすまり、空はきりりと晴れていった。それを私たちはクリスチャニア島の対岸から見守っていた。沿岸をぐるりと歩き、星型のカステレット要塞に達するときには夕方になっていた。池のまえにベンチがあり、人影が座って、金色の光がさしていた。つめたい風が吹きさすび、頬を日焼けしたように熱く感じた。冬のおわりの太陽がさしのべる金色の光は草むらにのび、幾筋にも切られていた。あたりは明るく、まぶしく、私たちは「なにこのロマンティック」などと言って写真を撮り、ベンチに腰かけた。

金色の午後を今までなんども繰り返し見た気がしたが、思い出すのはやめた。私そのものが見たものでできているのだから、見た気がしたのはあたりまえだと思った。すぐにベンチから腰を上げると私たちはとてもちいさな人魚姫まで歩き、夜を待った。

sdr

Denmark. Reading Karen Blixen’s Out of Africa while visiting Copenhagen – lots of hot neighborhood where the cool breeze goes by.

sdr