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帰国は灰色の午後

品川駅の高輪口を擦るようにぴんと伸びた国道15号線は、午後を過ぎた灰色の空の下で心ぼそい。目に映るもの何もかもがどんよりと明度を落とし、つられて私はまぶたを少し重く感じようとしてみた。ついでにポケットに手を入れて下を向いて歩きたいけれど、出張帰りのスーツケースがそうさせてくれないので仕方なく、前を向いて歩く。
今日の空気の肌触りは、きりきりとチクチクの間くらい。寒さはまだ痛みではなく、マフラーは風に耐えている。それでも私はこの空の灰色のあまりの心寂しさに、あたたかい場所に近づきたい、少しでも、と思った。

帰国に違和感がない。
あたたかい場所は楽だけど、外縁を失ってしまいそうになるので、冷たい場所でぴりりと確かめなければならない。そう思って、久しぶりの日本の冬に雪が降るのを心待ちにしていたのに、よりにもよって東京に雪の降った夜から南国出張であった。もどかしさも悔しさも、自分のせいでもないのですぐに流れ去る。
冬に出会うのはまた来年かしらね、そう思った瞬間に忘れた。

羽田に帰ってきて飛行機を降りて、ああ冬ね、と思って、京急でそのまま本の続きを読んでいるうちに「帰国」は終わった。身体は東京になじみ、私はただスーツケースを持って京急に乗ってる人だった。

 

スーツケースを引きずって駅から歩く帰り道、坂道に札が建っていた。坂の名前とその横に説明、「江戸時代この坂は、大名の下屋敷にのぼる坂でした」。
道路やマンションや、ちいさな公園がある場所にその昔、大名屋敷が建っていたのかあと流れで想像してみた。それが数百年のうちに取り壊され、震災で焼け戦争で焼け、国土改造計画で改造され、バブルとかもろもろで違う場所になってるわけだ。すれ違った二人組は日本語をしゃべっていなくて、東南アジア系の顔つきをしていた。
人は移り変わり、地盤はここにずっとある。ほんとうに?
灰色の空は人の地盤を心もとなくさせる。やっぱり私は早くあたたかい場所にもぐりこんで、守られるべきだ。

家に着こうとしたとき、お隣さんが出てきて、こんにちはと言った。私もこんにちはと言った。路傍に目をやると白いテトラポットのような盛り上がりが見えて、それは凍ってところどころ黒ずんでいる雪だった。雪、5日前の冬の名残り。
7度踏みしめてもゴツゴツという鈍い音が腰に響くだけだった。8度目でやっと、かかとがさくりと気持ちのよい音をたてた。雪の残りを踏みながら私は、冬はここにはなかった、と思った。冬は、ここにはない。心がすこしぐちゃっとしていた。いろんなことに平気な顔をして生きるのに疲れたのだ。

新春とんち

日本で元旦を迎えるのは実に8年ぶりだった。

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大事な友人が一時帰国したというので、カウントダウンがてら飲んできた。多幸感があり、それはどこからくるんだろう、って考えて、元旦をねむる。初夢をけむにまき、現実をたべてまぶたをひらく。

初詣してハシゴして、朝の9時に飲み屋を出たとき、かーっとまだ新しい太陽が、通りを橙に照らしていた。
そのときはっと、この1年間むにゃむにゃと思っていたことの、答えというか一つのあり方が見えたような気がした。帰る場所とは居場所であり、居場所というものは自分が居場所だと思えば居場所なのだろうなと。

居場所を作らないようにしていたのだろうなと思う。
身軽になりたい時期というのはたしかにあって、私はたぶんそれが長かったのだけど、身軽になることでより本質に近い場所に身を置けるような気がしていたのだ。自由と孤独はセットで、孤独の闇の中に研ぎ澄まされる思考がある。うん。それはきっと嘘ではなくて、しかし、私たちが対峙するものはそれだけではないのだ。

1年の頭に立てたとんちのような問いが1年経ったところで解ける(ような気がする)っていうのはなんて、なんていうことなんだろうなあ。
・圧倒的なもの。絶対的なもの。きちんと人生を生きていくということ。
・やさしさについて。人と違ってもいいのだということについて。
・場所はそこにあるのだということ。

まだ新春の酒が抜けてないけれどそれでもよい。生まれ変わった気すらする(それはうそ)。
今年はきっといい1年になる。そんな風に酒占いが言ってる。

IMG_8343 2016.1.1 Tokyo