月別アーカイブ: 2015年3月

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Living like one big family / 長屋の団子8キッズ

高級住宅地とスラムはすぐ近くにある。この寒い中(といっても10度とかだけど)、焚き火にあたりながら路上生活をしている家族もたくさん見る。子供たちはリキシャをアスレチックに走り回っているし、おっさんたちは顔じゅうぐるぐるマフラーを巻いているし、寒そうにしているのは焚き火のまわりで暖をとるおばさんたちだけだけれども。
子供たちはカメラを向けるところころと走り寄ってきて我先にとカメラの前でポーズをとる。飛び跳ねたりピースしたりとポーズもばらばらだ。何度かとっているうちにやっとまとまって、みんな団子のようになったのを写真に収めて、ちょっと雑談して去る。昔はきっと、この子達どこに住んでいるんだろう、学校行ってるのかな、ご飯なに食べているんだろう、病気になったらどうするんだろう、などなどなどなど、私の範疇にないことにたくさん気をもんでいたりしたかもしれないけれども、今じゃそういうことを考えなくなってきた。代わりに、彼らの暮らしと私の暮らしを結びつけるものはなんなんだろう、と、ただそれだけを考える。何度も何度も、考える。

2015.1.18

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Ear drop / じいさん薬局

右耳をほじると膿がじわりと染み出してくるので困っていた。薬局のカウンターで耳の穴を見せつけて、片言で「私の耳、中から液体」と繰り返すと、うんうん、大丈夫大丈夫、とじいさんが小さな瓶を出してくれた。
これ、イヤードロップね。1回2滴、1日3回。オッケー?念のために抗ヒスタミン剤も出しておくよ。小さな紙袋を持たされて夕方の町へ戻る。それだけで私は安心して、なんだか治った気になってしまって、いや、耳ぐすりを点さないと治らないとわかっているので今晩から点すけども、じいさんのいう大丈夫という言葉には万薬の響きがある。

2015.1.17

※治りました

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First spring storm / 春一番

つめたい朝の秋風の中にふんわりと、なまあたたかい流れが混ざるのが目にみえる。マーブル模様のように目にみえる。
夜更けにいやな夢をみて目覚めると、点いていたはずの枕元の灯りが消えていた。夜の間に停電したらしい。泥酔して書きかけの日記があった。
窓の向こうからばしばしと規則的な音が聴けてまるで乾いたドラムの打ち込みだ。布団の中にもう一度かたく身を忍び込ませて、どろりとした頭を整理する。そうだ、これは、雨の音だ。
窓のかたちに四角く切り取られて、プラスチック状の白い雨が、がちがち、がちがち、同じくらい白く明け始めた空から落ちてきていた。ぬるい空気が立ちのぼって、窓越しに私の鼻先まで届いた。がちがち、がちがち、雨はつづく。春の雨だ。朝はもうねむれない。

2015.1.17

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Winter stall / 冬ピタパン

バングラにだって冬が来る。
夜になると気温は10度まで下がるし、布団も一枚じゃ寒いし、そこらじゅうにたき火の赤あかと燃えるいろが見える。道ゆくおやじはマフラーで顔をぐるぐる巻きにして、しばれるーと肩をすぼめる。

冬の風物詩のひとつにピタパンというのがある。(たぶん)米の粉でできたふかふかの蒸しパンのようなもので、道端で焼かれてはココナツや砂糖やはちみつをかけて一枚10タカ(15円)で売られている。

はじめてバングラに来たときも冬だったので、ピタパンからはバングラがまだ生のまま鮮度をもって横たわっていたときのにおいがする。空気がかさかさに乾いてつんと寒い冬の朝の、日が落ちてアザーンを乗せる風のひんやりと心地よい冬の夕方の、かすかに甘さを残したやさしいにおいがする。

今日のピタパンはココナツが多くてちょっと喉に甘かったけれども、湯気がのぼるほどにアツアツで、指でちぎるとほろりとくずれた。売り子のおやじが「わし、ナマズ(お祈り)行くで」と言って屋台をそのままにモスクに入っていくのを見送りながら、私はふかふかのパン生地をかき集めつ、ココナツの粉を舐めとりつ、モスクの向こうに暮れる夕日を見ていた。

2015.1.12

Bangladesh000-Kushutia(旧ブログ続編8)

バングラデシュ津々浦々シリーズその8 – ふたつの夢(過去と現在のこと)

2013.1.25

あの場所から遠く離れたアフリカの東の端で、小さな宿の裏庭に私はマッチを擦った。ちりりと針で刺されたような痛みが顔じゅうに触れ、たちまち昼下がりの、赤っぽい風のすそのふくらみに紛れる。

何せ煙草をひらくのは半年ぶりであった。この痛みが煙草の先端に火のうつる手触りのそのものであると気づくのに少しかかった。もしかするとそれはひりひりとあたたかい郷愁であったかもしれない。
季節をなくしたするどい日射しは大木の、毛細血管のようにこまかく広がる枝葉を透いて、膝のうえに載せたタゴールの詩集に染み込んだ。タイから来た樹だとこの宿のオーナーは言う。名前は知らない。うす桃色の儚い花びらが、ぽろぽろと鈴なりになっている。この街は年じゅう誤りなく春の色をしているので、花のにおいは寸分たがわず淡かった。風も花も陽の光も、かたちをなくそうとしている記憶のように、何もかもが気まぐれにゆっくりと通り過ぎた。

急がねばなるまい。私は焦って煙草をほそく吹いた。
吐き出す煙はふわりとやわらかく、綿状にひらいて私の裏庭にゆき渡った。いが、が、喉の奥をがりがりと何度も引っ掻くので、私はおそるおそる目を閉じる。
煙の中になにかが居る。光につつまれて瞬間的に私は悟った。焼け付くような痛みが追いかける。チカチカと突き刺さるガラス質の欠片がある。このこがね色一色の万華鏡は、私の過去と記憶を隔てる浸透膜の、こまかなつぶなのだろうか。目の潰れそうなほどのまぶしさにそれでも目を凝らすと、煙の中の世界はかろやかなベンガル語の、ラロン廟で歌われていた歌たちの屍で敷き詰められてあった。それは死んでいた。
死ぬを始めて半年が経ったばかりなのに、たしかに死んでいた。
バングラデシュの首都の、ダッカに暮らした1年半の過去を、その後の旅はすでに殺してしまっていたのだった。

私はちょうど半年ほど前にダッカの小さなアパートを出て、ヨーロッパに飛び、アフリカで数ヶ月を過ごしていた。その半年の旅の間に、バングラデシュにたしかに存在していたはずの私は姿を消していた。過去は皮を剥がされたのち、肉を屠られ内臓を破られ、骨を砕かれていた。たくさんの血が流れた。

消化され尽くしてこなごなになった過去は、気づくとぼやけたけむになっていた。パッケージとしての、記憶のかたちはいつも不確かだ。私はほとんど意図的に、そのけむをビニールでぐるぐる巻きにして、記憶と書かれたステッカーを貼っていた。そして押し入れの中にぎゅうぎゅうに詰めて、後からどんどん新しいものを放り入れた。
ダッカの喧騒と排気ガスのたてる埃っぽいにおいは、エチオピアの、アディスアベバの道路工事の乾いた石つぶのにおいに。
地方都市タンガイルへ向かう幹線道路沿いを、色褪せた緑の茂る音は、ケニアのマサイ・マラの、サバンナに広がる茶色い草たちの引っ掻き合う音に。
インド国境にほど近い街ラッシャヒを滔滔と流れるガンジス河を照らす、夕陽の燃えるような赤さえも、ジブチの海にしずむしずかな桃色に、綺麗にとって代わられた。
旅はまだかろうじて、非日常という名をした荒削りの石に彩られて、新陳代謝を繰り返していた。

私の内にある記憶は撹拌された。それから私の身体がとどまるアフリカ大陸に追いついた。記憶の上澄みにバングラデシュがせり上がってくることはもうほとんどなかった。
半年が経っていた。

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その夜、乾季のナイロビに珍しく雨が降った。うすいナイロン地を通じて、テントに夜の雨が忍びこむ。草がさらさらと鳴る。まるで涙の落ちる音のようだ。生々しい土にかすかに犬の糞尿がまざった、そのにおいは少し腐ったやさしい泥水のにおいで、バングラデシュの雨季のにおいに似ていると私は思った。

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Bangladesh000-Tangail(旧ブログ7)

バングラデシュ津々浦々シリーズその7 – 未来のようなもの(すぐ先にあるもののこと)

2012.6.2

 

タンガイルに来た。いつものようにダッカの喧騒を一本そぎ落としに来たのだ。

人の圧力と熱気にぎゅうと押しつぶされるバスの中。びっしり汗をかいて目覚めると、車掌の男の子が通路から私の腕をつついて何事かつぶやいている。私は暑さで押しつぶされた夢から這い上がったばかりで、なかなかそのつぶやきを耳に染み通さなかった。
「プロノバススタンドに着いたよ!降りて」

時間をみると12時45分。ダッカからきっかり3時間。ぐっすり眠っている間にバスは無事タンガイルに着いたようだった。

私は桜の散り際の東京から戻ったばかりだった。つい一週間前まではやわらかくくすんで消えそうな薄光の中にいたのに、盛夏のバングラデシュは容赦ない直射日光で、急にスポットライトを浴びたような気持ちになる。
タンガイルもとにかく暑くて、その頃の私には考えなければならないことがたくさんあった。ひとつ案件が終わるころで、ひとつ進路の決断もして、さて、これからどうするの?
近い未来も遠い未来も考えなければならないことはたくさんあったが、未来のようなものはまだもうもうと土煙に巻かれて見えなかった。
でもそんなのいつものことだ。未来のようなものはいつだって見えない。私はいつだってフワフワと浮ついて生きている。

ちょうど日本人の旅行者が「あなたの夢はなに?」というテーマで意欲的にインタビューをしながら世界を回っていた。私は特にない、と答えていた。それは模範回答ではなかったが、私には特に夢はなかった。今何をする、次に何をする、というその日暮らしの積み重ねがどこかに続いていくのならばよい。私はいつだってフワフワと浮ついて生きていた。

今回はタンガイルで働く日本人の家に世話になることにした。私は彼女のことを敬愛の意味を込めてねえさんと呼んでいた。ねえさんのこしらえた夕食はうまく、冷やした麦茶によく合ったが、私はビールを持ってこなかったことを激しく後悔した。どうしていつも旅をするときに酒を忘れるの?それはこの国のバス移動が過酷だからだ、それは言い訳になるの?いや単に面倒なだけか?と私は眠りにつきながら自問自答を繰り返していた。

翌朝もピーカンの晴れの日だった。寝起きの悪い私はぐずりながらなかなか起きずねえさんを手こずらせた。ねえさんごめんなさい。その日はあるNGOの事務所と、そのNGOの運営するノンフォーマル教育の寄宿学校へ行くことにした。学校で体育を教えている先生が付いてきてくれる。

CNGがなかなかつかまらず、私たちはテンプー(乗合いのピックアップトラック)に乗り込んで頭を屋根にガンガンぶつけながら学校へ向かった。
メインロードを縁取る木々の向こうに田んぼ、田んぼ、畑。こちら側には田んぼ、畑、民家民家。牛が草をゆっくりと食む。
その光景に既視感を覚えて空を仰ぐと、木々の彼方にみやる今日の空はしろっぽい。こんなに晴れて、でも不思議とこんなにしろっぽい。
1年としばらくをバングラデシュに過ごして、あちらこちら田舎を旅してきた。どこも何の変哲もない田舎の風景だったけれど、村ごとに町ごとに色が違う気がすることにそろそろ気づいていた。村ごとに町ごとに川の水の成分や季節風の関係で空気の色がちょっとずつ違うのか。それともその時期の私ごとに涙の成分や言葉の風向きがちょっとずつ違うのか。
書こう、と私はそのときゴトゴト揺れるテンプーの中でやっと思ったのだ。だってこんなにも微細な色の違いに気づいてしまったのだ。外縁から始めて、ダッカにたどり着くまでは書こうじゃないか。

市街地からしばらく走った街外れに寄宿学校はあった。いかめしい門をくぐると大きい緑の校庭が開ける。街外れにあるだけあって敷地は広い。校舎は校庭のはるか奥だ。

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Bangladesh000-Sirajgonj(旧ブログ6)

バングラデシュ津々浦々シリーズその6 – 水と土のこと(識字について)

2012.5.28

見渡せる限り海のような開けた川だった。

日差しを遮るものはなく、筏にエンジンを付けたばかりの、はしけほど平たい小舟はすっかり空にさらされている。小舟のへりに座る小母さんは真っ黒なコウモリ傘を私の肩越しに差しかける。
私は雨季の川の上にいた。川の中洲にある小さな島に学校を訪ねて行くのだ。

 

バングラデシュは川の国と呼ばれる。雨季に増水して自在に膨れる川に抱かれ、中洲に浮かぶ小島は左右上下を削されて肩身を狭くしている。
本土から小舟でわたるのにゆうに1時間を要する、ここは離島だ。日本の離島のようにぽつんと大海原の中を取り残されているというのとは違う、右も左も上も下も本土で囲まれた、それでもれっきとした離島だ。
離島ということで行き届いていないサービスはいくらでもあり、そのひとつに教育があるという。先生不足。教材不足。学校不足、制服不足。
このNGOが行なっているのは識字教育と女子学生支援だった。

図書館の設置で有名なこのNGOの代表に言われたのは、
「この国には図書館を作る以前の問題があるんです。本を読む習慣がない。読み書きができない。図書館作りもやっていますがそんなのは後です。今度一緒に離島に行きましょう」
だった。

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Bangladesh000-Rajshahi(旧ブログ5)

バングラデシュ津々浦々シリーズその5 – 近い過去のこと(ガンジス川について)

2012.5.15

バングラデシュを訪れた友人にもうすぐフルーツの季節だと話していた。これから2ヶ月間、マンゴーとライチがめちゃくちゃうまい季節が訪れて、雨季の深まりと共に去っていくのだよと(あまり知られていないがこの国はいわゆる南国フルーツ大国で、シーズン中は異様に甘いマンゴーが1kg40タカ(=)とか50タカとかで手に入る)。季節の去り際に冷凍庫を持つ者は夏の味を惜しんで数キロ単位で凍らせ、冷凍庫が空っぽになる頃には夏の名残も忘れる。
缶詰にはしないのか?と彼は聞いた。
そういえば缶詰はないと私は答えた。そういえば、ない。夏が終わると甘いマンゴーは市場から消える。

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ここバングラデシュでは予想外のことが起こり続ける。バスは時間どおりに着かず、ボートはオイル切れを起こして水上で立ち往生。この取引、先週は出来るはずだった条件が、今週になると「状況が変わった」。
予想外のことが起こり続けるのはなぜか?もちろん一般化はできないが、ここではひとはそもそも予想というものをしないんではないか?そこまで話が進んでふと思った。予想をしないというのは、未来の概念が希薄だということなのかもしれない。もしくは未来へつながる場所を予測するのが一般的でないのかも。

過去があるからいまがあると、私たちは彼方からここまでの道すじに規則性を見つける。見つけた規則性を計算しながら、ここから向こうへ続きの道すじを描く。未来のあるべき場所の予測。たいていの場合、規則は大きく違えない。だって私たちの生きるいまは切れ切れの「いま」「いま」ではなく、次から次へ、貫く棒のごときもので結ばれた流れの一部なのだ。スチール製の棒はまっすぐに伸びやすやすとは曲がらない。
缶詰とは棒を辿ることであり、棒を曲げることだ。吹き起こってはたち消えてゆくものを、ぐにゃり曲がった棒でつなげるのだ。夏が終わってもマンゴーを残そう。押し流すものに逆らって、消えゆくはずの過去を未来へ残そう。

バングラデシュにおける缶詰の不在。彼らにとって果物とは重力の作用したあとのバラバラの「いま」だ。木の幹はそらへ伸びず、乱数のように地に転がる熟れたマンゴーは一過性の「いま」であってかまわない。切れ切れの「いま」であってかまわない。この流れのたどり着く場所を予測しなくてもよければ、押し流すものに逆らわなくてもいい。

そういえばひとは「インシャッラー(アッラーが望み給うままに)」という。アッラーが望むのならば出来るでしょう、アッラーが望むのならば生き残るでしょう、アッラーが望むのならば会えるでしょう。「この高速道路は出来上がりますかね?」「インシャッラー」「こんな建物じゃ地震起きたときひとたまりもないよ」「インシャッラー」「また会えるかな」「インシャッラー」
未来を予測するのも未来に歯向かうのも自分たちの役割ではない、地球は四角いことだし、流れ落ちる未来に自分たち人間は関知しないしできない。と、そういうことだろうか。

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ちょうど1年ほど前、5月も終わりに差し掛かったころ、中東の旅で出会った旅人の友人がバングラデシュを訪ねてきてくれた。
久しぶりに彼が背負うバックパックの重みが私にも伝わってくるようで、ダッカを無色透明の日常にしてゆるゆる浸っていた私もぴりりと襟を正す。私ももとは旅人だったからである。

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バングラデシュ津々浦々シリーズその4続き – 土地と田舎と彼女の物語

キショルゴンジの友人に会った。

彼女と会うのは2年半ぶりだった。最近よく眠れなくてにきびができて、と29歳の頬を触りながら、彼女は今の生活についてしゃべり始めた。
人権教育のNGOに勤めることになって、1年間バンコクに駐在していること。2年前に始めた障害教育の修士を取り終えたこと。次は法律の学位を取るつもりだということ。バンコクの任務が終わったらまたバングラに戻って人権教育のメディア担当をする予定だということ。奨学金の制度を作りたいということ。今は単身赴任だけど、夫とも仲良くやっていること。
自分が今までやってきたこととやりたかったことがやっとつながってきて充実しているということ。But..
キラキラした目で語りながら彼女はつづけた。But.. I needed to wait. For a long long time. 2年前に、私が忸怩たる思いで将来を焦っていたことを、覚えているでしょう?
ユーコ、あなたが旅に出たのはどうして?楽しかった?2年間、行ってよかった?

楽しかったよ。とてもとても。旅をしてみたかったというそれだけなんだけどね。と答えながら、物語は続いていくのだということを、それを信じるということを、忸怩たる思いで将来を焦っているときにこそ信じるのだということを、私は強く思った。とてもとても強く思った。

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バングラデシュ津々浦々シリーズその4 – 土地と田舎のこと(家族のようなもの)

2012.5.5

東京で生まれ育った人の全てがそうであるというわけではなかろうが、「帰省」という単語に一種の憧憬の念を抱くことがある。
長らく東京にいて、自分が根無し草ではなく、一見帰る場所には見えにくい東京という場所から形成されているのだとはなかなか思えなかった。そのために私は祖父母の故郷の九州になにか田舎めいた役割を果たしてもらおうとしていた。故郷とはかの山やかの川で構成されているべきものだと思っていたからだ。

同じことをこの国でも思っていた。ダッカに居を構えながらも、私はダッカの外になにか故郷めいたものを求めた。
バングラデシュに来てくれた友人たちにはいつも、ダッカと他の町は違う国だ、という言い方をしている。
物価が違う、空気が違う、人が違う、置いてあるものが違う。何よりも、かの川がある(かの山はあまりない)。失われた故郷感、これを独特の豊かさに感じるのだ。

ちょっと逸れるが、バングラデシュのキャッチコピーは「アジアの最貧国」で、そのサバイバルなイメージから、「バングラで男/女になってくる」と一旗上げに来る意識の高い学生が絶えない(自分がそうでなかったとは言わない)。
個人的にはこのキャッチコピーに対する違和感はみっつあって、ひとつめはそもそものものさしの問題。ここにいう貧困というのは「稼げない貧困」であり(確かにこの国の年間国民総所得(GNIGross National Income)は600ドル代と低い)、「食べられない貧困」とは違うこと(ここはデルタの恵みのおかげか穀物自給率が100%に近い農業大国だ。但し栄養の偏りは存在する)。
ふたつめは、ダッカの反証。低所得を強調するがゆえに高所得の部分も看過していること(ダッカは物が豊富で、南アジア最大級のショッピングモールがあったり、異様な金持ちがけっこういる)。
そしてみっつめが、田舎の反証。GNIというものさしで隠されるGNHGross National Happiness;ブータン憲法でも言及されているやつ)が、実はけっこう高いんじゃないかという感触がある。

田舎に来るといつも思うのだ。ダッカに出なくても日本に来なくても稼げなくても、家族寄り添って単調であたたかい日常を送っているじゃないか。どっちがいいかはなかなか判断しがたいところだけれど、この生活の色味までも、低所得というものさしの貧困という名の下にぶった切って整列させると、大事なものをこぼしてしまっている気がする。

自然ばかりではなく、ここには家族やコミュニティーのつながりの異様な強固さがある。
これが何を意味するかって、「帰る場所」の存在だ。宗教とはまた違う、ある意味の「絶対」というものが、帰る場所の存在には含まれていると思うのだ。
その辺からだんだん気づき始めた。故郷というのはかの山やかの川だけではないのだ。帰る場所の安心感も含むのだ。

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私もどこかで帰る場所を探していたのかもしれない。仲良しのバングラデシュ人(夫婦)が田舎の実家に招待してくれたとき、二つ返事で「行く」と答えた。それ以来、ダッカから抜け出したいときに電話を一本入れて、彼女らの田舎で数日から1週間くらいを過ごすのが恒例行事になった。 

彼女はキショルゴンジというダッカの北東の県のさらに東のはずれの出身で、小柄で目がぱっちりして曲がったことが嫌いで、少女漫画の主人公然としていた。
小さいころから優秀で、田舎の高校から猛勉強してダッカ大(バングラデシュの東大)に入った。そこで同じくキショルゴンジ県からダッカ大に出てきた秀才くんと出会って結婚。
お見合い結婚が主流のこの国で、恋愛結婚はまだかなりレアだ。田舎になると特にそう。このケースは旦那の両親もその年代ではまずありえない恋愛結婚だったようで、おかげですんなりと許しが出たそうだ。
恋愛結婚のせいか知らないがオープンな家庭で、バングラデシュ人にしては珍しく、ガイジンである私を比較的ほっておいてくれた。私は田舎を好きにぶらぶらしていて、とても楽ちんだった。 

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