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ベトナム5

ホーチミンとハノイはたしかに、空気が違う。ごはんが違う。人との距離感が違う。ビールが違う。町に漂う資本主義感が違う。
町のボリュームは、ホーチミンの方が大きい。

ホーチミンでは仕事の合間にバックパックを買ってみた。4代目となるバックパックを買ってみた。しっくりくるような、ちょっと違うような。
旅はもう以前の旅ではない。私には以前のような旅はできない。でもそれでもバックパックを背負うと、身がキュッと引き締まるような思いがするのはこれはなんだろう、慣性なのだろうか。ただいま感の中に、よそ者感があり、よそ者感の中に、ただいま感がある。

ベトナム2 

ベトナム(ハノイ)版つけ麺と聞くブンチャーなるものを食した。昼ごはんに食べることが多いというこの風変わりな名前の麺は、その中身も風変わりだった。

まず大きなどんぶりに人参と大根の浮いたコンソメスープのようなものが出てきたのでこれがつけ麺の汁だと思ったら、実際そうだったのだが、すすってみて違和感。つめたく、酸っぱいのである。酸辣湯麺のような酸っぱさではない。酢漬けの味である。酢漬けを薄めた液体の底には細かくニンニクが沈み、ぽちぽちと浮かぶのは刻み唐辛子。人参をすくい上げてかじると淡白なキムチのようである。

それからふだんは生春巻きの間に入っている春雨みたいな米粉の麺が、ほぐされることもなく、もりっと供されて、それをこの酢漬けスープで溶いてほぐし、上にパクチーやらシソやらオオバやらレタスやらを盛る。最後にバーべキュー肉と肉団子を乗せて、ほぐれた麺と一緒にすする。バーベキューの時の脂っぽいにおいが服の表面に乗り移る。

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麺を食っているという感覚はなかった。代わりに、生春巻きの中身を広げ、酢漬け野菜とコリアンタウンのプルコギを乗せてむしゃむしゃ食べているという感覚があった。ああ、なるほどすでに私はこれを韓国料理と認識しているのだな。

なかなか新しい食べ物であった。

風呂雑徒然草

風呂に入りながら考えていたことを徒然なるままに。

1-翻訳をやっていて

歴史を学びたかったんだなあという、10数年前の話。でも流されるままに法学部に入って、あとはご案内のとおり、紆余曲折を経て今に至る。
今の時代でも十分に何がほんとで何がほんとじゃないかがわからないのだから、昔の時代についても調べるなんて大変なことだ。

2-名前をつけると病気になるっていう話

ちょうど半年前に、バングラとか東南アジアでは人と違う人に病名をつけないから病気じゃないって話をした。そしたらさっきどこかで流れてたラジオで同じようなこと言ってた。タイでは「徘徊に寛容」なのではなく「徘徊」っていう感覚があんまりない、って話。

3-

あともうひとつ、まとめようと思ったことがあったんだけど(風呂の中で)、忘れた。いろんなことが頭の中に去来して、大事なことはすぐ通り過ぎ、こぼれ落ちる。残ったことが結果的に大事なことなんだろうけど、ついこぼれ落ちた方にばかりね、気が向くのですよね。あーあ。

といって、ふと後ろを見ると携帯が放置されているのが見える。

しばらく携帯をいじらないでいると、それが何か美味しいものをいっぱいふくんで重くなってるような風に見える。来ていない返信とか、思いがけない便りとか、そういうのを。

4-思い出した。歴史の話だ。

今、歴史の本の翻訳をやっているのだけど、たまたま担当が中国・アジア史(宋~元)でした。

それで、宋の社会・文化の部分を訳していて、あーなるほど平和だったからこういう文を武よりも尊ぶ風潮があったんだねと思ったのが初めの印象。

徽宗っていう皇帝は「風流天子」と呼ばれた、なんていって、皇帝自らが書いた御絵なんかも掲載されていて、すげーなーと思っていた。すぐれた画家のパトロンになるのみじゃ飽き足らず、自分自身が後世に残る絵を書く(それが皇帝だったためかほんとうに当時からクオリティが高かったのか)っていう芸術肌の君主が、いるもんだなあと感動したりして。

そういうボンクラ君主は平和な時代にしか生まれない。戦乱の世では君主が国の統治をほっぽって絵を書いていて、しかもそれがけっこうガチでっていうことにはならない。平和な時代は、いろんな内なる批判を(アフリカの子供たちが飢えているから不謹慎だとか、今日もどこかで戦争が起こっているだろうから不謹慎だとか、そういう批判を)まずは置いて目の前にある本質を突き詰めるという一見無意味な活動に従事できるわけだな。働いているのではなく、遊んでいるように見える人びと。動いているのではなく、考えている人びと。

「宋の時代の文化は、装飾をそぎ落とし物事の本質に迫るものだった」っていう。

などと、感心しながら訳出を進めていったところで「金の侵略と宋の南渡」

宋最後の皇帝となった徽宗は、金の侵入を受け皇帝位を息子に譲ったが、結局金に都を落とされ、拉致られてしまう。徽宗以下、皇族のほぼ全てが連れ去られ、彼らが再び中国の地を踏むことはなかった。女性皇族はなんとか院という場所に入れられ、娼婦になることを強要された。

って、徽宗は物事の本質には迫ったが、家族すらも守れなかったのだ。

ここが平和な時代でも向こうは平和な時代ではないかもしれない。そして二つの世界の境界はあいまいだ。北方からの流入派、異世界ではなく、つまりここだけが世界じゃないのかもしれない。そんなことを思ったのだった。何がほんとうかわからないけど、歴史の本を読むのは楽しい。過去形で語られていたところが突如として現在形になり「宋代の白磁と唐代の唐三彩を比較して欲しい、今の世の君たち」というような呼びかけが生じたりする。そのたびに私は現実に引き戻されて、ああ、今と過去はつながっているようで断絶しており、いやしかし断絶しているようでやはり、脈々と流れ続いている、などと思う。

帰国の黒

「気温は、摂氏、5度」
と、平坦なアナウンスが流れて、摂氏という言葉を聞くのは飛行機の着陸時くらいだなと思う。

羽田の手荷物受取場は深夜帰国の乗客たちでごった返していて、サンフランシスコ、ドバイ、マニラ、電光掲示板に列挙された街に思いを馳せる。
ここにいる人たちは、いろんな国のにおいをまだつけている。においはごちゃっと混ざって、でもそのにおいの余韻から抜け出す寸前の、人びとの高揚と安堵もまたごちゃっと混ざって、税関出口の前に垣根を作る。さあ、東京だよ、東京だよ。

「帰ってきて一番驚いたことはなんですか」
長いこと外国に住んで帰国した人に聞いてみたときの、答えのひとつに「到着したとき、みんな髪が黒くて驚いた」というのがあった。
髪の黒さというのは比喩に過ぎず、日本人の同質性が空港で一層はっきりと見える、ということだと思うが、うん、たしかに、上から見た手荷物受取場は、黒かった。

帰りの電車で偶然友人を見つけた。私はどうやって匿名・無作為の集団を認識しているんだろうなと、帰り道に考える。髪の黒さ、かあ。

日常の中の旅

乗換案内でバスや電車の時間を調べず、
ただ家を出て、バス停に行ってバスを待つ。すぐ来れば乗るし、なかなかバスが来ないときにはちょっと歩いて次のバス停まで行く、商店やコンビニを冷やかす。道路標識を読む。
路傍のベンチに座って白く硬い今日の空を見上げる。まるで石が敷き詰められているようだ。重いな。重い。ブーツのかかとを鳴らし、また立ち上がる。

そうやって結局、目的地まで歩いて行ってしまう。途中の古本屋で徒然草を買った。あれ、目的ってなんなんだっけ?

帰国は灰色の午後

品川駅の高輪口を擦るようにぴんと伸びた国道15号線は、午後を過ぎた灰色の空の下で心ぼそい。目に映るもの何もかもがどんよりと明度を落とし、つられて私はまぶたを少し重く感じようとしてみた。ついでにポケットに手を入れて下を向いて歩きたいけれど、出張帰りのスーツケースがそうさせてくれないので仕方なく、前を向いて歩く。
今日の空気の肌触りは、きりきりとチクチクの間くらい。寒さはまだ痛みではなく、マフラーは風に耐えている。それでも私はこの空の灰色のあまりの心寂しさに、あたたかい場所に近づきたい、少しでも、と思った。

帰国に違和感がない。
あたたかい場所は楽だけど、外縁を失ってしまいそうになるので、冷たい場所でぴりりと確かめなければならない。そう思って、久しぶりの日本の冬に雪が降るのを心待ちにしていたのに、よりにもよって東京に雪の降った夜から南国出張であった。もどかしさも悔しさも、自分のせいでもないのですぐに流れ去る。
冬に出会うのはまた来年かしらね、そう思った瞬間に忘れた。

羽田に帰ってきて飛行機を降りて、ああ冬ね、と思って、京急でそのまま本の続きを読んでいるうちに「帰国」は終わった。身体は東京になじみ、私はただスーツケースを持って京急に乗ってる人だった。

 

スーツケースを引きずって駅から歩く帰り道、坂道に札が建っていた。坂の名前とその横に説明、「江戸時代この坂は、大名の下屋敷にのぼる坂でした」。
道路やマンションや、ちいさな公園がある場所にその昔、大名屋敷が建っていたのかあと流れで想像してみた。それが数百年のうちに取り壊され、震災で焼け戦争で焼け、国土改造計画で改造され、バブルとかもろもろで違う場所になってるわけだ。すれ違った二人組は日本語をしゃべっていなくて、東南アジア系の顔つきをしていた。
人は移り変わり、地盤はここにずっとある。ほんとうに?
灰色の空は人の地盤を心もとなくさせる。やっぱり私は早くあたたかい場所にもぐりこんで、守られるべきだ。

家に着こうとしたとき、お隣さんが出てきて、こんにちはと言った。私もこんにちはと言った。路傍に目をやると白いテトラポットのような盛り上がりが見えて、それは凍ってところどころ黒ずんでいる雪だった。雪、5日前の冬の名残り。
7度踏みしめてもゴツゴツという鈍い音が腰に響くだけだった。8度目でやっと、かかとがさくりと気持ちのよい音をたてた。雪の残りを踏みながら私は、冬はここにはなかった、と思った。冬は、ここにはない。心がすこしぐちゃっとしていた。いろんなことに平気な顔をして生きるのに疲れたのだ。

師走コール

12月のカレンダーを見ながら。
テーブルマウンテンのような台形状の山の上から、するんと落ちそうな気持ちになっていた。「師走!」「師走!」
コールが怖い。12月の、ひとを焦らす感じがえぐい。

でも次のカレンダーを開いてみると1月はふつうに、当たり前にやってきて、月曜日には仕事もあったりして、時間は延びていく。人生はつづいていく。悲しいことやつらいことがあっても、そう簡単に止まってはくれないし、時は淡々と流れる。時間の流れ方は相対的だけど、流れていく時間というのは絶対的だ。
台形状の山から落ちて、次の台形状の山のうえをまたするするとすべり始める。生きるというのはそういうするするすべりの積み重ね、なのかなあ。区切りなんてねえ。

去年今年貫くなにか得体のしれない大きなものへ。生かしてくれて、ありがとうございましたー。来年も生きてやる。

国の容姿

きのう、国を男に例えるのがなさんとの間で5分くらい流行ったんだけど、
シンガポールは条件はいいけど粗野な不細工とか(スイマセン)、
スペインは容姿がいいから許せるダメ男とか(スイマセン)、
なんにせよなさんは別れる直前の彼氏みたいな感じでシンガポールを語っていたが、
それでいうと日本はそこそこ金のあるいいおじさん(でも20年後には介護確定)って感じなんでしょうな。

安心感ってなんだろうね。

帰国は深夜

電車の中は、冬のコートのにおいがする。つんとつめたい表皮の内側に、ちょっとすえた汗のにおい。寒い日本はやさしい。

羽田空港を出て京急に乗って、品川でJRに乗り換えたら電車が止まっていた。仕方なく精算して外に出ようとしたら改札の係員口でみんなキレてる。振替切符出すのになんでこんなに待たされるんだ。だいたいアナウンスもないじゃないか。もういいわよ、切符置いてくわ。俺なんて10分も待ったぞ。やいのやいの。
駅員さんがルーティン的に帽子を脱いで、はあ、すいません、と言う。外に出るとタクシー乗り場に長蛇の列。 寒い日本は賑わい。

気持ちがごちゃっとしたのでちょっと歩こうと思いついた。どのみちこのタクシー待ちの列だ。大通りを少し歩いてから拾った方が早かろう。
ものの5分で空車のタクシーが何台も通り過ぎていった。みんな、歩けばいいのにねえ、と思いながら、足を止める気にならなかった。寒い日本、気持ちいい。酔っぱらってもいないのに歩きたい気分だ。
電車を待たされると5分でも苛立つのに、夜を歩いていると5分じゃ足りないのはなんでなんだろう。

右手にスーツケースを並走させながら、国道15号線をずんずんと歩く。
飛行機の中で読んだ本、書いた日記、観なかった映画。今回の出張の記憶、飲み会の記憶。明日からの予定。ポケットの中のバーツ・コイン。ラオスで食べた麺は米粉とタピオカ粉で、タイで食べたやつは普通の小麦粉のミーだった。冬はひたひたと近寄ってきているけれども、つんと鼻に抜けるわさびのような日本の冬が愛しくてたまらん。通り沿いにBMWが燦然と輝いてる。
散らかった頭の中を整理することもなく、ただずんずんと歩く。スーツケースの車輪はぐるぐるとアスファルトに鳴る。
マンホールの下から電車の駆けるゴーという音。浅草線だこれはきっと。

歩き始めて30分もしたら背中にしっとりと汗をかいていた。
15号線沿いには店の一軒も開いていなくて、まっすぐ帰ればいいのになんだか寄り道をしたい気分になってしまった。泉岳寺の寺はひっそりと息をしずめている。討ち入りまであと2週間だ。47人分の息がしずまっている。
泉岳寺の駅を越えてやっと魚民の看板が見えた。

通りを渡ろうとして信号を待っているとき、裏通りを覗いてみたら一軒だけお店が開いていた。魚民をやめて、その店で晩酌セットを頼んで、エビス生を飲みながらこれを書いている。私はウォーキング・ハイになっているから外国から帰ってきたばかりなんですよーなんて話しかけたりして、へーそうなんですかってお店のマスターが出してくれたのがスパイシーな生姜たっぷりの厚揚げだった。なんて美味しいんだろうと思った。シメにうどんを頼んだら油が張っていて、泣きたくなるくらい熱かった。

少し開いた窓のすき間から冬の風が入ってくる。左頬だけ、肌がちりっと凍ってつめたい。Hello Orange Sunshineが流れてる。店の前に見える自販機だけが明るい、深夜零時半。

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記憶外たち

「あれ、何かがへんだ」
と、思っていたのは、ただ気力がわかないというより、もう外に行くことに、飛行機に乗ることに、異文化の中で自分の核となる何かを研ぎ澄ませることに、汗をかいたり大声でしゃべったり、違う言葉に脳を切り替えたり、よいしょという掛け声を要するたくさんのことに、疲れていたのだった。

だから今回も嫌々飛行機に乗ったのだけど、タラップを降りてぎゅうと凝縮した熱帯性アジアのにおいに、湿気と埃とちいさな焦りと、少しだけ緑の混じった重めのにおいに、その生ぬるさに、胸を突き通すような懐かしさを覚えて、疲れの予感は吹き飛んだ。

最初のにおいは覚えているもんだと思う。その後は慣れてしまう細かなにおいの構成要素ひとつひとつに、皮膚の外側にあるいちばん鋭敏な表が反応するようになっている。ふれる、ということの、はじめてである。
皮膚は摩耗し象の皮になり、そのうち樹皮になり、今は水も吸い込まない。が、ときおり何かの拍子でやわらかくなったりする。風のように記憶が吹き込むのはそのときである。

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私が初めてプーケットに来たのは2005年のスマトラ沖の津波の直後で、しかも父親と一緒だった。
私たち親子を案内する島のガイドはおっさんで、「やー、ご夫婦だと思いましたよ」などと共犯感を乞うような卑屈な笑みを顔半分にニヤリ浮かべて近寄ってきて、そのときはなんてつまらない冗談を言う人なんだろうと思ったのだが、彼が言っていたのは冗談ではなかったのだと、今になってみると分かる。この島には、若い女を買ってバカンスに来る初老のおやじは数多い。

というようなことばかり記憶の内に湧いてある。記憶は過去になり、記憶外は抹消される。当時のおっさんとのやり取りは抹消されていたはずの記憶外から記憶のうちに戻ってきて、まっとうに私の過去をやっている。今のところは。

あと、プーケットの島の真ん中にこんもりと盛り上がった緑の山道を行きながら、この濃い緑の中に深い悲しみがうずまっているのだと思ったことを覚えている。これはずっと覚えている。その頃は悲しみの定義も知らなかったが、初めて聞いた津波の話や可視化されたその爪痕はけっこう衝撃だった。

はじめてのことを、忘れないで生きていられたらいろんなことに気づくのになあと思う。
でも、忘れないままで生きていたら前に進めない気もする。たくさんのことを忘れていく権利がある。忘れられてしまったはじめてのことが、ふとした瞬間に記憶の隅で拾われて、よみがえったりもする。必要なときに必要な分だけ呼び出すから、と、その記憶外たちに声をかけるが、向こうからやってきてくれるのかもしれない。前を向いて今を構成するものの中を生きていたいと切に願う。