新春・続き方

変化すること、しないこと。

このところ何年も、(目に見える)変化のある場所にずっと身を置いていたので、「変化のある場所にいること」は逆に変化がないことのようになっていた。だから、昨今の私にとっては、「変化のない場所にいること」が変化であり、それゆえに私は変化がなく確からしく思えるものに憧れたり、目に見える変化を(移動とか環境の移り変わりとか)退屈だと思ったりしていた。

年末に飲んでいて来年の抱負云々という話になったとき一人が「変化があった方が楽しいと思う」と言っていて、ふむと思った。変化のない場所なんて本当はないのだろうけども、目に見える変化は楽しい。

日常の中に、目に見える変化があると、トクンとする。そういう小さな高揚はしかし、スパイスになっても、主食にはならない。というのが日本での定説だ。生活は、「変化しないもの」の上に成り立っている。「もしくは、繰り返すもの」「もしくは、前例とか」「続いていくもの」「でも主食だけでは退屈だ」

 

 

数年前、旅の終わりに「退屈は死に至るか」なんていう大仰な命題を立てて夜の海の前でビール缶をパカパカ空けて、ギター弦の音は潮風に混ざってぼそぼそと、頼りない独り言のように裸であったけれども心許なくはなく、砂浜に座って一緒に飲んでいたうちの一人が私のそんな迷子の問いに応えてフランス映画のデータをくれた。なのでその人はフランス人だったような気がする。名前も憶えていない。「退屈は死に至るか」「退屈はゆるやかな死に至るのかもしれない、でもそうでもないのかもしれない。と僕は思う」「これから日本に帰って、私は終わりのない生活をどうやって生きていくことになるんだろう」「郊外の、悪い地域で育って、何も面白いこともないし、なにかをどうしたいなんて思うこともない。ただ、生き延びるだけ。そんな生活だ」「うむ」「っていう感じのものを描いた映画なんだ」「じゃあここにいることは何なの?」「この南の島は、希望なのか、逃避なのか、ゆるやかな死なのか。僕には分からない」

私はまだその映画を観ていない。何ならデータをもらったパソコンは壊れた。

 

ずっと変わらないと思っているものの中にも、変化はある。同じところに住んで、同じようなことをしていても人はひとりでに老けていくし、小さいころ蛍の飛んでいた近所の公園には、今はもうそのちいさな碧の、影も形もない。町のにおいは変わる。街路に跳ね返る車の音も変わる。3年前にほしかったものはもうほしくないし、今好きなものを3年後も好きな保証なんてない(お酒を呑んだ後のラーメンはまだしばらく好きな保証があるけど、そういう食生活が続けられる保証はない)。

変わり続けるものの中に生きているから、変わらないものがあってほしいと願う。信仰のはじまりはシンプルだ。

空の色の不確かさに目がくらみ、闇は漆黒であってほしいと願う。星は金、白銀、青銅であってほしいと願う。宇宙は白くては困るし、星粒は黒くては困る。世界が反転しては困る。本当の世界がどっちかということは問題ではなく、ただ、世界が変化してもらっては困る。否そんな世界は信じなければ良い。

信仰はさまざまな形をとる。宗教、会社、社会、目的信仰。自分の来し方行く末。人間は何かを成すために生まれてきたのだというのが目的信仰で、私もまた長いことこの信仰の中に浸かっていたような気がする。「人生のgoalは何か」「羅針盤は何か」云々。信仰を捨てるのは大変だ。「人間にgoalなどなくても生きていてよくて、たぶん、」などと神を殺すのは歯切れが悪い。

不安は意味を乞う。意味は往々にして不寛容で、きびしい。目的信仰の使徒みたいな人もそう。

 

ほんとうは、変化するものにも変化しないものにも、価値の優劣はないし、さらに言えば価値そのものだってないのかもしれない。価値も意味も、短命な人間の発明品にしては長生きしている。まずもって変化と不変も行ったり来たりの混沌の中に同じにいるのかもしれない。

ところが私は移動中の電車の中でしかあまり本が読めないし、しかも旅先の電車の中の方がよりページがはかどる気がする。もしくは不断に揺れる波の音の中で。「静」は移動や変化の中に位置づけ、住居や定宿でゴロゴロするときはもっと動きの多い素材でエンターテインしなければならない。漫画とか、映画とか、テレビとか、ミュージックビデオとか。だから変化と不変は卑近な場所では区別可能となっている。いつか長い長い鉄道の中でひたすらに本を読み続けたい。日が暮れたら本を閉じて、お酒を飲む。ほろ酔いのうちに酒のふたを閉じて、車窓に映る人びとの姿を見て人間の顔かたちを確かめ、外に黒い夜の闇が広がってくれていることを願う。まぶたの裏を夜闇に同化させてねむる。

そして朝目が覚めて、窓の外に映る代わり映えのない景色にどこかほっとする。

「やっぱり1000年続くものは偉いのかもしれない」と思う。「そうなの?」「だって、ほっとするもの」「中身がごっそり入れ替わってても?」「でもそれでも同じものだと思うものもあるじゃない」「何が同じなんだろう」同一性は何か。アイデンティティのラベルは内側から貼るのか外側から貼るのか。私はこの代わり映えのない草原を、上から見るのがよいのか、横から見るのがよいか。同一性があると暫定的にでも信じる、それが何か所与のものに抗うということか。
「抗うことは、えらいのかな?」「保存されるものは、えらいのかな?」
同一性は相違の上にしか生まれない。そうでなければ、人間なんてどれも同じだ。

 

去年日本に帰っていたとき京都に長居していて、建仁寺で風神雷神を見たときに、その屏風の表面にはりつく古い色合いとか、(さわってないけど)手触り感とか質感とか、そういう「もう何百年も続いているもの」にホヘーとため息をもらしたりしたものだったから、ただ表面が変わらずに、「同じもの」として残ったというだけでもえらいという気がしていたのは間違いない。(あと、空白とは?ということと、風神と雷神どっちから描き始めたんだろう?ということを思ったりもした)

でもブータンのお寺は日々塗り替えられていた。日々の信仰に供するために、もともと塗られてあった絵の具の錆びた発色をそのままにしておくつもりなんてさらさらなくて、それでもこの寺は代々同じ寺で、きっと「続いていくものであること」の本質は違うのだ。

これから終末期が訪れても、その時代は「空白の百年」つって石のおもてのみぞ知る時代になるのかもしれないし、終わりなき日常が連綿と続いていくだけかもしれない。しかしどうせいつかは空白の百年に投げ込まれるのだとしても、存在不安には「続く」が効くのだ。続くとは何だ、境目を失くした人間の、2016年と2017年をつらぬくものは何なのだ。

 

初日の出まで起きていられなくて、酔いつぶれてもいないのに早々に退散した年越しだった、今年は。老化も変化である。

私は妄想の中の車窓で赤い朝日が左頬をじわじわと焼いていくのを見る。日差しは皮膚をつらぬき顔の中身をゆるく攪拌して、私の中で続いているものの形を少しだけ、入れ替える。ギワーと頭の奥の方に血の気が射して、今の私はあのときの私とシンクロしている、そこにいる私もまた今の私と何かしらの同一性を保っている。あたたかいものの中にいるということは、冷たいものの中にいることと対を成すことで判明する。葉擦れの音が耳に落ち、透明人間を卒業しようかな、と私はふと思う。