灯りのもと

(飛行機)

読書灯をつける。

友人に借りた本を読んでいると、最後のページからはらりと薄い紙が落ちて、それは友人がその本を買ったときのレシートだった。そこには5年前の4月という時間が印字されていた。

その5年前の4月に、私は何をしていただろうかと記憶を探る。
どこへ逃げようかと考えていた。嵐のような迷いの中にいた。今も迷っているが今は嵐ではない、たぶん。と今の私は思う。

友人がどこぞの書店でこの本を手に取った時間に、私にはまた別の時間が流れていて、しかし何の因果かその本を5年後の今私が読んでいる。それがとても、いいなと思ったのはそれは当たり前のことのように思えて、いや本当は不思議なことのはずだからなのである。

時空を飛び越えて虚構を追う体験を、活版印刷の発明から、石器時代からか、いやもっと前の認知革命か、言葉を生み出した時代からか、私たちはまるで当然のことのように、自分のもののように、こなしている。

 

その本はエッセーだった。
最初のページから著者目線に感情移入して、彼女の訪れた場所や出会った人を取り巻くしずかな感情の、降り積もる地層の上を私も歩く。そのうちこの物語が1950年代の話なのだと知る。
60年も前の話だなんて思いもしないほど、外国に来た30がらみの女性が、透明になってあたりの景色を見つめる目に、私は共感していた。自分がここにいてもその場所だけよそ者向けにならない空間が心地よいというようなことが書かれていて、どこか違うところに在る、ということはそういうようなことなのかもしれない。今も昔も。

近くにいる遠い人を眺める目つきを、普遍的なものだと私は思った。そして少し安心した。私たちを取り巻く世界がどれほど変わろうと、他者との境、別の場所との境、ここにないもの・あるものの境というものは、たぶんあって、どこか遠くにやってきたら、ここにない者、かっちりと在るように見える現実、その合間にあるまどろみの時間に、否応なく直面する。

遠くというのは距離だけの話ではない。自分の外縁というのは伸縮するフウセン的なものにすぎず、しかしどこかにあって、垣根をなくすことがかっこいい時代/場所があったり、壁のこちら側・あちら側を設定して近い属性を守るのがかっこいい時代/場所があったりしてそのフウセンの透明度は変わったりするのだろうが、でもフウセンは同じフウセンなのだ。

 

読書灯を消す。ぷにっと指がめり込むタイプのパネルはもう何年もずっと、原初の時代から、ここにあった気がする。
通路を隔てて隣の乗客が寝息をたてている。機体の壁からにじみ出る轟轟という音にあらがって、アジア系の顔をした彼もゴウゴウと、夢の中から音を漏らしている。アフリカのどこへ行くのか分からないけど、おじさん。がんばろうね。などと感傷的になって私は隣のおじさんに心の中で小さく声をかけ、いましばらくの暗闇に目を閉じる。

 

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辿り着いてからも本の続きをちびちびと読み進んでいる。5年前のレシートをしおり代わりにして読んでいる。これがもう過ぎ去った時代を描いた物語なのだということを、そして著者は故人なのだということを、今はもう知りながら読んでいる。

故人の書く話はおしなべて、結末を知っている物語のようで悲しく、しかしその閉ざされた箱の中に私たちもいつか入るのだという諦念が解放感をふくんで、目の前にある現実の世界を透き通らせずにいてくれる。

そこにあるものがなまなましいものであることに、私は救われている。小さな窓から差し込む午後の光が、あの洞穴のような飛行機の暗闇と接続しているのだということを、束の間忘れる。

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