長居

(アビジャン)

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気がつくと時が流れていて、それは凝縮された時間のかたまりがジェットコースターに積載されて、身体の中をすごい勢いで通り過ぎていくような不思議な日々。

もう来ないかもしれない場所、もう会わないかもしれない人、本当はすべてのものはそうして定まらないままに流れているのに、でもしばらくそこにいると、同じ視線のうちに日々があると、ついその場所は当たり前のようにずっと動かずにあるもののような気持ちになってしまう。それはごく自然な遠い希望なのだと思うのだけど、

その遠い希望のせいで、ああ、あの時が最後だったのだ、と知るのはいつも、ずっと後になってからだ。それが最後の瞬間だったなんて、その瞬間にはもう決まっているのかもしれないのに、近視眼的に生きるほかない私たち人間には分からない。

 

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始まりだって同じだ。なにかが始まっているときにはそれが始まっているのだということを、自分はその中を通り過ぎているのだということを、あんまり分からないでいる。始まってしばらくしてその空気の中にすっかり浸かっているときにふっと外を見て、ああ、外の景色が違う色をしている、どうしてだろう、いつからだろう、なんてその外の景色がまだ白っぽかったときのことをすっかり忘れてしまっている。ほそい糸をたどるように記憶を手さぐりに、つたっていって、あああのときなのだとやっと分かる。世界が切り替わるタイミングというのはきっとそんなものだ。飛行機の着陸のような分かりやすいものじゃない。

 

今あるものは結果ではなく、ただの途中の過程に過ぎないのだとすると、何かが「そう」だと決まるにはまだまだ時間がかかるのかもしれない。それでも仮の「そう」だというのがどこかのタイミングで、あるような気がして、それが分か(ったような気にな)るときに、自分は生きていると思えるようになるのかもしれない。

今はただ、目の前にあるものを味わい尽くすという、それだけしかやりようがない。