お天気雨

土地は、枠であるのだと思う。それ以上でもそれ以下でもない。

良く晴れた穏やかな午後に、海の見えるレストランにシーフードを食べに来た。ひなびた土曜の海岸通りにちいさく、一軒だけそこにぽんと置いていかれたような西欧風の建物があって、ロブスターが美味いという話だった。

タイルばりの床からは、潮を含んでむっとする湿気にさらされた漆喰のにおいがして、私はこのにおいを嗅いだことがあると思ったが確信が持てなかった。

海に面したテラス席からは赤や黄色のペンキで塗られた小さな帆船がみえ、おもちゃをばらばらと浮かべたような黒い海面にも見覚えがあったが確信が持てなかった。それほどに私の中にある類似の体験はごちゃ混ぜになっていて、場所というのはただその類似体験をごちゃ混ぜに放り込む、混乱した器でしかなかった。

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西欧の田舎のB&Bの小粋さと、海の家の気安さを持ち合わせている場所なんて、きっと人生のどこかで訪ねている。にごった海のおもてが、カラコロと原色の油彩をのせていて、それが透き通ったエメラルドグリーンの波間よりも親しいと安心する感覚は、きっと人生のどこかで抱いている。長いこと生きていると経験はいつかの経験の焼き直しやそれらの複合体のようになってしまって、それがかなしいことのように思う瞬間がときどきある。本当に同じものは実はひとつとしてないのに、私はもう類似のものを同じものと判断するように、疲れている。今はもう新しいものを渇望するわけでもないのに、それでも皮膚を失ったような感覚になにか自分がとてつもなく老いたような気がして、きりっと新しいものを感じていた時代をなつかしむくらいには、退屈してこじれている。

「私、ここ来たことあるかも」戸惑いを外に出すと、

「うそやん」と友人が答える。

「うそかも」と私。実際に、うそのような気がする。「でも、もし来ているなら、あのときなのだということは分かる」世界はそんな場所であふれている。既視感にひとつひとつ向き合っていたら、気持ち悪くなってしまうくらいに、記憶というものはいっこいっこ重い。酒でも飲んでその重いもの全てをこぼしてしまいたいと私はときどき思う。「そのときはもう夕方で、シーフードはあらかた売り切れていて、だから私は友人たちとワインを飲んだだけで、ただ海の写真を撮って帰った。でもその写真を見たって、それがこの海なのかどうかは分からないよね。海なんてどこにでもあるから」

 

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土地という箱の上に重い記憶がずんもりとのっかって、染みて、染みて色をつける。海のいろ、船のいろ、それを一緒に見た誰かの目。頭に器をのせた女の人たちの原色の衣装。街路を舞う砂のいろ、ワインの赤、「町はずれのこのレストランまで、いつも車で来るんだ」という誰かの声。「風が気持ちいいね」とまた別の誰かの声。「アビジャンにも、こんな場所があるんだね」というのは私なんだろうか。「陽が射して、風が通る場所があるのは大切なことだよね」「そうそう、僕たちのような外国人には、息が付ける場所が必要なんだ」僕たちのような外国人。そうだ彼らはここで働く中国人の友人だった。

 

過去は強烈なにおいがして、記憶の中にある原始の記憶は、私の本体にまだ皮膚がついていた時代の、まだ世界が新しかった時代の、この土地の色だ。色彩はプロジェクターを通じて、強い照度でここにいる私のうちにも投映されている。あのときの私がここにいる私を見上げている、その全く同じ場所に、未来の体験が、新たな記憶の「もと」として、雨のように降り注いでくる。記憶と、「いま」は混ざり合い、かたちを失い、いやそもそもがかたちなきものなのに、

「気持ちいい午後だね」という。

「ワインは何を飲もうか」

「ロゼではなかろうか」

うす桃色の透明なグラス。記憶は巻き戻されていく、いまに重なる。空はよく晴れている。

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アビジャンで、3年半ぶりの友人に3度、再会した。場末の食堂でしゃべり、私の部屋でしゃべり、出発当日ワタワタしている私のパッキングを手伝ってくれた彼女の、年齢をそのときに初めて聞いた。彼女がガーナへ留学した本当の理由を初めて聞いた。この9年で彼女にあったことを、初めて聞いた。私は彼女のことを何も知らなかったんだなあ。と思って、でも、その代わりに私は彼女の家族の顔とか、彼女と家族とのやり取りとか、彼女の作るごはんの味を知っている。私は彼女の育った実家に敷いた、布団のにおいを、ピンクがかった壁の色を知っている。知っているというより私は、おぼえている。記憶は常に不完全で、人を知っているということなんて、断片的なことでしかないがそれでも私はその断片を大切なものとして、おぼえている。

 

土地は、透明な枠だ。アフリカ西部の砂の色、女の人たちの衣装、赤いハヤシライスに似た現地ご飯、そういうのに彩られているような気がするけれど、気がするだけで、土地自体は枠であるほかはなんでもなくて、そんな土地に色をつけるのは記憶だ。

記憶自体も、色であるほかはなんでもなくて、実体なんてなくて、それをかたち(のようなもの)にしているのが土地だ。透明な枠がその中に降り積もった雑多な記憶たちをきれいに年代別に気持ち別に出会った人別に会話別に、整理してホールドしてくれていなくても、それでもそのかたちなき時間の混ざり合いを、立体的に、かたち然にしてくれているのはやっぱり透明な枠で、私たちを決定しているのはきっとその「かたち」のふりをした場所だ。

 

「ここには、私、初めて来たわよ」3年半前、彼女は砂浜に目を凝らしてそう言った。

「そうなの?」

「ローカルはこんなところ来ないのよ。近くにある海の家でビールを飲むことはあってもね」

「そうかー」私も、中国人の友人たちも、なんとはなしに口をつぐんだ。そのときの潮風の、不完全さ黒さ重さを私は、おぼえている。

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あのとき一緒に来た彼女に、今回偶然あのレストランに行ったんだよと言うことなく、帰ってきてしまった。その後にレストランの隣にある海の家でビールを飲んで、熱い砂つぶの中に足をうずめて、昼下がりの海のずっしりと重い場所に、夕方の風がさっと通る瞬間を、見たよって言うことなく別れてしまった。同じ場所は、同じ場所ではなく、でも続いているように思えて、それはなんでなんだろうと、それは、今も記憶をかたちにして色付きで保存しようとしている私の、ただの小さな願いの内側に過ぎないんじゃないかって、とても強く晴れていたあの場所で私だけ柔らかな雨の中にいて、それがまた少しかなしくて、そしてあたたかい。