Bangladesh000-Kishoreganj(旧ブログ4)

バングラデシュ津々浦々シリーズその4 – 土地と田舎のこと(家族のようなもの)

2012.5.5

東京で生まれ育った人の全てがそうであるというわけではなかろうが、「帰省」という単語に一種の憧憬の念を抱くことがある。
長らく東京にいて、自分が根無し草ではなく、一見帰る場所には見えにくい東京という場所から形成されているのだとはなかなか思えなかった。そのために私は祖父母の故郷の九州になにか田舎めいた役割を果たしてもらおうとしていた。故郷とはかの山やかの川で構成されているべきものだと思っていたからだ。

同じことをこの国でも思っていた。ダッカに居を構えながらも、私はダッカの外になにか故郷めいたものを求めた。
バングラデシュに来てくれた友人たちにはいつも、ダッカと他の町は違う国だ、という言い方をしている。
物価が違う、空気が違う、人が違う、置いてあるものが違う。何よりも、かの川がある(かの山はあまりない)。失われた故郷感、これを独特の豊かさに感じるのだ。

ちょっと逸れるが、バングラデシュのキャッチコピーは「アジアの最貧国」で、そのサバイバルなイメージから、「バングラで男/女になってくる」と一旗上げに来る意識の高い学生が絶えない(自分がそうでなかったとは言わない)。
個人的にはこのキャッチコピーに対する違和感はみっつあって、ひとつめはそもそものものさしの問題。ここにいう貧困というのは「稼げない貧困」であり(確かにこの国の年間国民総所得(GNIGross National Income)は600ドル代と低い)、「食べられない貧困」とは違うこと(ここはデルタの恵みのおかげか穀物自給率が100%に近い農業大国だ。但し栄養の偏りは存在する)。
ふたつめは、ダッカの反証。低所得を強調するがゆえに高所得の部分も看過していること(ダッカは物が豊富で、南アジア最大級のショッピングモールがあったり、異様な金持ちがけっこういる)。
そしてみっつめが、田舎の反証。GNIというものさしで隠されるGNHGross National Happiness;ブータン憲法でも言及されているやつ)が、実はけっこう高いんじゃないかという感触がある。

田舎に来るといつも思うのだ。ダッカに出なくても日本に来なくても稼げなくても、家族寄り添って単調であたたかい日常を送っているじゃないか。どっちがいいかはなかなか判断しがたいところだけれど、この生活の色味までも、低所得というものさしの貧困という名の下にぶった切って整列させると、大事なものをこぼしてしまっている気がする。

自然ばかりではなく、ここには家族やコミュニティーのつながりの異様な強固さがある。
これが何を意味するかって、「帰る場所」の存在だ。宗教とはまた違う、ある意味の「絶対」というものが、帰る場所の存在には含まれていると思うのだ。
その辺からだんだん気づき始めた。故郷というのはかの山やかの川だけではないのだ。帰る場所の安心感も含むのだ。

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私もどこかで帰る場所を探していたのかもしれない。仲良しのバングラデシュ人(夫婦)が田舎の実家に招待してくれたとき、二つ返事で「行く」と答えた。それ以来、ダッカから抜け出したいときに電話を一本入れて、彼女らの田舎で数日から1週間くらいを過ごすのが恒例行事になった。 

彼女はキショルゴンジというダッカの北東の県のさらに東のはずれの出身で、小柄で目がぱっちりして曲がったことが嫌いで、少女漫画の主人公然としていた。
小さいころから優秀で、田舎の高校から猛勉強してダッカ大(バングラデシュの東大)に入った。そこで同じくキショルゴンジ県からダッカ大に出てきた秀才くんと出会って結婚。
お見合い結婚が主流のこの国で、恋愛結婚はまだかなりレアだ。田舎になると特にそう。このケースは旦那の両親もその年代ではまずありえない恋愛結婚だったようで、おかげですんなりと許しが出たそうだ。
恋愛結婚のせいか知らないがオープンな家庭で、バングラデシュ人にしては珍しく、ガイジンである私を比較的ほっておいてくれた。私は田舎を好きにぶらぶらしていて、とても楽ちんだった。 

昼飯前や昼下がりにはそこいらに散歩に出かけた。田舎の幹線道路に鈴なりに生える家々があり、田んぼの畦道にボンバーマンよろしく配列されている家々があった。それらの家々を横目にして、私は大昔バングラデシュに来たことがあるという東京の友人の話を思い出していた。

「俺のバングラデシュのイメージは、ほら、本棚がないんだよ」
「いや何それ、本棚?」
「そう、本棚がないからバラっと本を床に置くしかないんだよ。散らばってる感じ。だから人も多く見える。見えるっていうか人口はほんとに多いけどな。まあそんな感じだ」
「へえ。それ私の部屋だわ」 

私の部屋みたいな散らばりはいたるところにあった。人だけではなく家もそうだ。田舎にはトタン屋根の平屋が大量に散らばる(2階建て以上の家があるのは基本的にショドル(県庁所在地)の一部だ)。
平屋はたいていコの字型や□型になっていて、三方だか四方だかの家部分に親戚同士が身を寄せ合って住んでいる(だから親戚一同は家族のようなものだ)。次世代へ、次世代へと相続で小さく土地を切ってゆくからこういう形になるのだという話。コや□に囲まれた真ん中の空間は中庭になっていて、そこで女衆は洗濯ものを干し、文字通り井戸端で会議をする。たいてい鶏が走っている。たいてい小さいやつらは鶏を追いかけていて、都度都度親に怒られている。 

友人夫婦の旦那の実家もそんな典型的な田舎の家だった。
ガスと水道がないのも典型的だった。料理は窯で、水は井戸で調達する。電気も一部の部屋にしかない上に停電でだいたい切れている。井戸の水はいつも冷たくて少し鉄の味がして、慣れると美味い気がしてくるが、何度も押して引いてを繰り返す手間と引き換えである。
料理もそうだ。何度もふいて火をおこす手間と引き換えである。私もよく台所に座り、彼女らが土の窯に薪をくべてカレーを茹でるのを見ていた。彼女らが包丁台を地面に置いて足で挟み、生姜やにんにくやきゅうりを刻むのを見ていた。床に置いた木のまな板の上でターメリックをすり潰すのを見ていた。ときに玉ねぎの皮むき程度のお手伝いをしたが、私にできることはそんなに多くない。

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私が遊びに行っていた時期、彼女はダッカでの仕事をやめてキショルゴンジに帰り、旦那が地元で細々と経営しているNGOを手伝いつつ、旦那の実家で主婦業をしていた。彼女の掌からはいつも玉ねぎやスパイスのにおいがした。

ある夜彼女が客間(私はベッドのある部屋に泊めてもらっていた)にやってきた。ひとりでやってくるときはたいてい相談事があるときだ。

「ダッカはつらいから」と彼女は言った。「ここにいると安心する」
「ダッカは住環境悪いもんね。物価も高いし」
「それもあるけど、それよりも私はひとりが怖い。田舎を出るまでは家族といたし、大学時代は女子寮で誰かが近くにいたから。でも旦那は田舎に帰っちゃったじゃない。ダッカでひとりで働いているときすごく心細かった。なによりも旦那と離れて住むのはおかしい気がしたんだよ」
「これからはキショルゴンジに住むの?」
「迷ってる。私は一回ダッカへ出ていろいろなものを見てしまったから。こっちに住んでたら安心して毎日を平穏に暮せて、今はそれでいいんだけど、また出たいと思ったときに出られなくなる。このまま何も仕事しないのは教育を受けさせてくれた親に申し訳が立たないとも思うし。それに私はお金を稼ぐことの意味も知ってる。ここでは限界があることを知ってる。いつかバングラデシュの外も見たいと思ったら、ここにいてはだめなのよ」
「なるほど」
「だけどそれ以上に、ダッカで働いている間、家族とも旦那とも会えないつらさがわかった。逆もまたしかり。私がダッカに住んでいたままでは、旦那や家族に安心を与えられているとは思えない。たとえ金銭的には援助できてもね。ねえ、私どっちを選べばいいと思う?」 

私はびくっとした。
確かに、この国は本当にコネ社会で、ダッカ大を出ても就職をできない学生がたくさんいる。コネがない人たちには、いったんダッカを諦めてしまうことに対する代償が大きいのだ。彼女のいうとおり、いったん田舎に帰るとダッカに戻って仕事をするのは大変だし、外国なんて夢のまた夢だ。 

だけどそれ以上に私は、家族のようなものというのはなんだろうと思った。
彼女の二択でいうと私は前者を選んでここにいるわけだ。そこに迷いはなかったか、不安はなかったか、という質問はFAQで、まああったけれど、と私は答える。
しかし同時に逆もまたしかり。独身の私にとっては親のいる東京が「帰る場所」なのだが、私はその「帰る場所」をメンテナンスしようという努力をしていなかったのではないか。家族のようなもの。それはどこからか一方的なものではなくなるのかもしれない。

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ロジャイード(断食明けのお祝い)のときにも私はキショルゴンジの旦那の実家にお邪魔していた。新しい季節のはじまり、といった雰囲気で、彼らの住む小さな町にはちょっとぴっとした空気が流れている。それでもどことなくざわざわしているのがその日の特別感を演出して、ゆるい風のにおいに心が浮き立つ。

 のっそり起き出した私を見て、旦那の母はめざとく「ミス・スリーピー、起きたのね」とからかった。
「起きた。おはようございます」
「シャワー浴びたの?」
「浴びてない。でもそんな汗かいてない」
「今日はお祭りの日よ。新年みたいなものなんだから身体はきれいにすること」
ぴしゃりと井戸のある間に放り込まれた。 

水浴びが終わると私は生まれたての赤子のお宮参りのようにおめかしさせられて、親戚一同の家への行脚に連れて行かれることになった。サリーを着せられ、ビンディを額に付けられる。日焼けどめを塗っただけで終わらせようとしたら化粧が薄いとやり直しを命じられた。

 化粧のやり直しのために部屋へ戻ると、ベッドの上に友人がひとりで座っていた。
「さみしい」と突然彼女が言う。
「いつも断食明けは実家でお祝いしていたのに。昨日の晩は本当は家族親戚みんなで歌を歌って飲んで食べて(酒は飲まない)、夜まで遊んだのに」
今年は旦那の実家で過ごすから・・・と続けようとしていた。

「今から実家に挨拶に行くじゃん。そのまま泊まっちゃえばいいじゃん」
「旦那は戻れって言うよ・・・あ、でも彼はリベラルだから普段は別に実家に帰ってもなにも言わないんだよ。それだけでもありがたいと思ってるよ、田舎は保守的だからね。でも今日は特別なお祝いの日だからきっと無理だよ」
「そうかあ」
「お祝いの日に実家の家族と一緒にいたいって思うってことは、彼と私はまだ家族っていう感じじゃないのかも」
「いやいや、ふたりが結婚して初めての断食明けだからじゃない?そのうち慣れるよ、きっと」

自分の言ってることにはたしてどれほどの説得力があるのだろうと訝りながら、ひと肌脱ごうと私は思った。
「ガイジンの私があっちに泊まるってごねたらあなたも一緒に泊まらせてくれるかも」

彼女の実家もまた、ガス・水道のない平屋だった。そしてここには電気も通っていなかった。日が暮れるとみんなで椅子を中庭に持ち出して円座に座り、ランタンに火をつける。キャンプファイヤーのようだった。確かにここで親戚一同集まって飲めやの食えやの歌えや(酒は飲まない)というのが特別な行事だということは傍目にも分かった。祖父母の家での正月行事を彷彿とさせる。そしてこの、夜まで続く祭りの共有こそが家族を家族たらしめる大切な行事なのだとすれば、この祭りから1年、2年と遠ざかるうちに家族としてのつながりが薄れてしまうのではないかという危惧は確かにあるんだろう。

「ウチへ泊まっていけ」はバングラデシュ人の常だが、宴もたけなわになってくると、ここでも案の定「ウチへ泊まっていけ」が始まった。ただでさえガイジンの珍しい国、娘の友達とあらばなおさらだ。
私はここぞと旦那に掛け合い始めた。

「今日は彼女の実家に泊まりたい。いいでしょ?」
「だめ。今日は我が家に帰る。彼女も君も僕の実家に一緒に帰る」
「なんでだめなの?」
「理由1:君の荷物は僕の実家にある」
「実はもう持ってきている。私けっこう身軽なのよ」
「理由2:君はダッカに帰る」
「ここからでも直接帰れる」
「理由3:ここには蚊帳がない」
「私には蚊よけスプレーがある」
「理由4:うちの両親が待っている」
「それはそうだけど」
「理由5:今は向こうが彼女の家。彼女も向こうに帰りたいはずだ」

私は彼女を見た。
「それはそうなんだけど」と彼女は言った。
「今日は帰りなさい」と彼女の両親が言った。

そこで私は彼女にとっての問題は「ダッカかキショルゴンジか」というだけではないのだと悟った。
自分が帰る「帰る場所」と、自分が作る「帰る場所」と。ふたつはときに重ならない。
「お前は俺のところへ家を捨ててくるのだから、帰る場所はないと思」うのはもう30年以上前のことだと、私は無意識にか意識的にか思っていたようだった。ここではまだ故郷とは一方通行にもなるようだった。 

「力になれずごめん」
「いいよ」

帰り道、旦那の妹が、隣に座った従姉妹にしなだれかかってまるで酔っ払ったように歌を歌っていた。彼女の歌声は低く力強く、あたたかく美しかった。車じゅうが彼女の歌声に聴き惚れながら一緒に歌い始めた。そこかしこからコロコロと笑い声が立ち上っていた。
私と彼女は後部座席に二人で座っていた。

「こうしてみんなでいると楽しいし、みんなすごく良くしてくれるのだけど、やっぱり嫁は嫁なんだよ。ときどき疲れる」
「そうか」と独身の私は相づちを打った。
「そうなの。彼はいい人で、私を一番理解してくれる相談相手なんだけど」
「それは羨ましいよ」
「でも、世界が狭くなったような気がして、ときどき窒息しそうになる」
そのとき妹の歌っていたのは切ないラブソングで、短調に変わるメロディーラインが窓の外の闇に反射して響いた。

翌日私は旦那の家族に挨拶をして、一人でダッカへ戻った。

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年が明けて忙しくなって、すっかりご無沙汰していたら彼女から電話があった。
「仕事ゲットした。ダッカのテレビ局で働くことにしたよ」
「旦那は?」
「キショルゴンジ」
「そうなの」
「いいのよ。私は月1か月2で帰って、旦那も月1か月2でダッカに来るから」
「それでも一緒に暮らすのとは違うよね」
「そこは解決してない。でも仕方ない」
「そっか」
「またダッカに住んだら気持ち変わるかもしれないけど」
「そのときはそのとき?」
「そのときはそのとき」 

でも仕方ない、というところで、私も東京の家族のことを思った。私にとって家族とは親であり兄弟であった。彼女にとってそれは旦那であり、それから親であり兄弟であった。家族と、家族のようなもの。なにかが違うのかもしれない。
故郷というのはかの山やかの川だけではないのだ。故郷とは家族であり家族のようなものであり、過去から未来を貫いて流れる独特の川なのだ。この国での川の流れは速く、たいていの場合それは一方通行である。

しかし帰る場所を作るという気概は、故郷とは別のところであってもよいのだ。その気概が家族のようなものを作り、家族のようなものがまた別の家族になるのだ。また別の故郷になるのだ。 

話しているうちに、ふいに気になったことが口をついて出た。
「これからもキショルゴンジの家に遊びに行ってもいい?」
彼女はちょっと笑った。
そしてひと息ついて、「あなたは家族のようなものだから」と言った。