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Bangladesh000-Rajshahi(旧ブログ5)

バングラデシュ津々浦々シリーズその5 – 近い過去のこと(ガンジス川について)

2012.5.15

バングラデシュを訪れた友人にもうすぐフルーツの季節だと話していた。これから2ヶ月間、マンゴーとライチがめちゃくちゃうまい季節が訪れて、雨季の深まりと共に去っていくのだよと(あまり知られていないがこの国はいわゆる南国フルーツ大国で、シーズン中は異様に甘いマンゴーが1kg40タカ(=)とか50タカとかで手に入る)。季節の去り際に冷凍庫を持つ者は夏の味を惜しんで数キロ単位で凍らせ、冷凍庫が空っぽになる頃には夏の名残も忘れる。
缶詰にはしないのか?と彼は聞いた。
そういえば缶詰はないと私は答えた。そういえば、ない。夏が終わると甘いマンゴーは市場から消える。

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ここバングラデシュでは予想外のことが起こり続ける。バスは時間どおりに着かず、ボートはオイル切れを起こして水上で立ち往生。この取引、先週は出来るはずだった条件が、今週になると「状況が変わった」。
予想外のことが起こり続けるのはなぜか?もちろん一般化はできないが、ここではひとはそもそも予想というものをしないんではないか?そこまで話が進んでふと思った。予想をしないというのは、未来の概念が希薄だということなのかもしれない。もしくは未来へつながる場所を予測するのが一般的でないのかも。

過去があるからいまがあると、私たちは彼方からここまでの道すじに規則性を見つける。見つけた規則性を計算しながら、ここから向こうへ続きの道すじを描く。未来のあるべき場所の予測。たいていの場合、規則は大きく違えない。だって私たちの生きるいまは切れ切れの「いま」「いま」ではなく、次から次へ、貫く棒のごときもので結ばれた流れの一部なのだ。スチール製の棒はまっすぐに伸びやすやすとは曲がらない。
缶詰とは棒を辿ることであり、棒を曲げることだ。吹き起こってはたち消えてゆくものを、ぐにゃり曲がった棒でつなげるのだ。夏が終わってもマンゴーを残そう。押し流すものに逆らって、消えゆくはずの過去を未来へ残そう。

バングラデシュにおける缶詰の不在。彼らにとって果物とは重力の作用したあとのバラバラの「いま」だ。木の幹はそらへ伸びず、乱数のように地に転がる熟れたマンゴーは一過性の「いま」であってかまわない。切れ切れの「いま」であってかまわない。この流れのたどり着く場所を予測しなくてもよければ、押し流すものに逆らわなくてもいい。

そういえばひとは「インシャッラー(アッラーが望み給うままに)」という。アッラーが望むのならば出来るでしょう、アッラーが望むのならば生き残るでしょう、アッラーが望むのならば会えるでしょう。「この高速道路は出来上がりますかね?」「インシャッラー」「こんな建物じゃ地震起きたときひとたまりもないよ」「インシャッラー」「また会えるかな」「インシャッラー」
未来を予測するのも未来に歯向かうのも自分たちの役割ではない、地球は四角いことだし、流れ落ちる未来に自分たち人間は関知しないしできない。と、そういうことだろうか。

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ちょうど1年ほど前、5月も終わりに差し掛かったころ、中東の旅で出会った旅人の友人がバングラデシュを訪ねてきてくれた。
久しぶりに彼が背負うバックパックの重みが私にも伝わってくるようで、ダッカを無色透明の日常にしてゆるゆる浸っていた私もぴりりと襟を正す。私ももとは旅人だったからである。

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Bangladesh000-Kishoreganj(旧ブログ4-続き)

バングラデシュ津々浦々シリーズその4続き – 土地と田舎と彼女の物語

キショルゴンジの友人に会った。

彼女と会うのは2年半ぶりだった。最近よく眠れなくてにきびができて、と29歳の頬を触りながら、彼女は今の生活についてしゃべり始めた。
人権教育のNGOに勤めることになって、1年間バンコクに駐在していること。2年前に始めた障害教育の修士を取り終えたこと。次は法律の学位を取るつもりだということ。バンコクの任務が終わったらまたバングラに戻って人権教育のメディア担当をする予定だということ。奨学金の制度を作りたいということ。今は単身赴任だけど、夫とも仲良くやっていること。
自分が今までやってきたこととやりたかったことがやっとつながってきて充実しているということ。But..
キラキラした目で語りながら彼女はつづけた。But.. I needed to wait. For a long long time. 2年前に、私が忸怩たる思いで将来を焦っていたことを、覚えているでしょう?
ユーコ、あなたが旅に出たのはどうして?楽しかった?2年間、行ってよかった?

楽しかったよ。とてもとても。旅をしてみたかったというそれだけなんだけどね。と答えながら、物語は続いていくのだということを、それを信じるということを、忸怩たる思いで将来を焦っているときにこそ信じるのだということを、私は強く思った。とてもとても強く思った。

2015.3.4

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Bangladesh000-Kishoreganj(旧ブログ4)

バングラデシュ津々浦々シリーズその4 – 土地と田舎のこと(家族のようなもの)

2012.5.5

東京で生まれ育った人の全てがそうであるというわけではなかろうが、「帰省」という単語に一種の憧憬の念を抱くことがある。
長らく東京にいて、自分が根無し草ではなく、一見帰る場所には見えにくい東京という場所から形成されているのだとはなかなか思えなかった。そのために私は祖父母の故郷の九州になにか田舎めいた役割を果たしてもらおうとしていた。故郷とはかの山やかの川で構成されているべきものだと思っていたからだ。

同じことをこの国でも思っていた。ダッカに居を構えながらも、私はダッカの外になにか故郷めいたものを求めた。
バングラデシュに来てくれた友人たちにはいつも、ダッカと他の町は違う国だ、という言い方をしている。
物価が違う、空気が違う、人が違う、置いてあるものが違う。何よりも、かの川がある(かの山はあまりない)。失われた故郷感、これを独特の豊かさに感じるのだ。

ちょっと逸れるが、バングラデシュのキャッチコピーは「アジアの最貧国」で、そのサバイバルなイメージから、「バングラで男/女になってくる」と一旗上げに来る意識の高い学生が絶えない(自分がそうでなかったとは言わない)。
個人的にはこのキャッチコピーに対する違和感はみっつあって、ひとつめはそもそものものさしの問題。ここにいう貧困というのは「稼げない貧困」であり(確かにこの国の年間国民総所得(GNIGross National Income)は600ドル代と低い)、「食べられない貧困」とは違うこと(ここはデルタの恵みのおかげか穀物自給率が100%に近い農業大国だ。但し栄養の偏りは存在する)。
ふたつめは、ダッカの反証。低所得を強調するがゆえに高所得の部分も看過していること(ダッカは物が豊富で、南アジア最大級のショッピングモールがあったり、異様な金持ちがけっこういる)。
そしてみっつめが、田舎の反証。GNIというものさしで隠されるGNHGross National Happiness;ブータン憲法でも言及されているやつ)が、実はけっこう高いんじゃないかという感触がある。

田舎に来るといつも思うのだ。ダッカに出なくても日本に来なくても稼げなくても、家族寄り添って単調であたたかい日常を送っているじゃないか。どっちがいいかはなかなか判断しがたいところだけれど、この生活の色味までも、低所得というものさしの貧困という名の下にぶった切って整列させると、大事なものをこぼしてしまっている気がする。

自然ばかりではなく、ここには家族やコミュニティーのつながりの異様な強固さがある。
これが何を意味するかって、「帰る場所」の存在だ。宗教とはまた違う、ある意味の「絶対」というものが、帰る場所の存在には含まれていると思うのだ。
その辺からだんだん気づき始めた。故郷というのはかの山やかの川だけではないのだ。帰る場所の安心感も含むのだ。

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私もどこかで帰る場所を探していたのかもしれない。仲良しのバングラデシュ人(夫婦)が田舎の実家に招待してくれたとき、二つ返事で「行く」と答えた。それ以来、ダッカから抜け出したいときに電話を一本入れて、彼女らの田舎で数日から1週間くらいを過ごすのが恒例行事になった。 

彼女はキショルゴンジというダッカの北東の県のさらに東のはずれの出身で、小柄で目がぱっちりして曲がったことが嫌いで、少女漫画の主人公然としていた。
小さいころから優秀で、田舎の高校から猛勉強してダッカ大(バングラデシュの東大)に入った。そこで同じくキショルゴンジ県からダッカ大に出てきた秀才くんと出会って結婚。
お見合い結婚が主流のこの国で、恋愛結婚はまだかなりレアだ。田舎になると特にそう。このケースは旦那の両親もその年代ではまずありえない恋愛結婚だったようで、おかげですんなりと許しが出たそうだ。
恋愛結婚のせいか知らないがオープンな家庭で、バングラデシュ人にしては珍しく、ガイジンである私を比較的ほっておいてくれた。私は田舎を好きにぶらぶらしていて、とても楽ちんだった。 

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Bangladesh000-Paharpur(旧ブログ3)

バングラデシュ津々浦々シリーズその3 – 遠い過去のこと(ベンガル仏教について)

2012.5.2

ひとはにおいによって昔の男を思い出すとかいうが、まあそれもそうなんだが、私はおとによって昔の旅を思い出す。

バングラデシュに来てしばらく経って、もう慣れていたと思っていたけれども、夜更けにアザーンが流れると未だにハッとすることがある。何年も前に中東を旅したときの記憶がとても鮮明に思い出されるのだ。
一連の旅の最終編で、トルコからシリア・ヨルダンを抜けてイスラエルへ入って、オリーブ山の丘からエルサレムの小さな旧市街を見下ろしていたときのこと。
夕暮れの空にキリスト教会の鐘が響き、鐘の音のもとに照らされていたのは嘆きの壁に向かって祈るユダヤ教徒だった。「そんでここからここはアルメニア人」と誰かが教えてくれた。

ユダヤ教超正統派の居住区を連想し、新約聖書の教会を連想し、シオンの丘を連想した。象徴的なものが極限まで混ぜられている色が、どうしようもなくまがまがしく、それでいてやはりこの旅で見てきたどこよりも美しい、と一番星を仰いだそのときに、アザーンが風に乗ってやってきて深い孤独をしたたか打った。
ここはイスラムの場所なのだ、と私はそのときぼんやり思った。
それはただの偶然だったけれど、単純に今までイスラム教国を回ってきた残像に過ぎないのかもしれんとも思っていたけれど、それでも私はアザーンの音を美しさ、というものに聞いたのだ。
政治的な云々はもちろんあるし、このときの感覚が私のパレスチナ問題に関する意見の表明というわけではないが、なんにせよ私はあの圧倒的に孤独なアザーンの音にゆくりなくのされてしまったのだ。

ベトナム・カンボジア・ラオスと東南アジアの旅を終えてバングラデシュへ入ったときも私はアザーンの音を聞いた。そしてこのごっちゃりとした町並みに案外すんなりと思った。
「ここはイスラムの場所なのだ」と。

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バングラデシュはイスラム教徒が約90%を占めるイスラム教国とされている。
しかしこの界隈がイスラム教になったのはそんなに昔の話ではない。イスラム教化は13世紀半ばのセーナ朝滅亡後から少しずつ進んでいたと言われているが当時は未だひとにぎりであった。ムガル帝国のもとでもヒンドゥー教王朝も容認されていて、ベンガル地方もべったりイスラム教だったというわけではないようだ(イギリス支配開始と前後する18世紀頃、ベンガルデルタ開拓とともにイスラム化が進んだという説もある)。

イギリス領インド帝国時代、イギリスがベンガル分割令を出したころにはなんとなくイスラム教徒が多くなっていたようだが、それでもまだ100年前の話。東パキスタンとしてインドから分離独立したときにも実はヒンドゥー教徒は1/4ほど残っていて、今の割合まで来たのはパキスタンからの独立運動のうちに彼らが迫害されて押し出され続けたからなのだということだ(とはいえ今でもヒンドゥー教のお祭りなんかは盛大に祝われていて、意外とヒンドゥー教徒とイスラム教徒は共生している)。
バングラデシュはパキスタンと一緒に独立したことから、イスラム教国としてのアイデンティティが重視される傾向にあるが(そしてベンガル人アイデンティティとの対比で語ろうとする研究者たち)、ここは単一宗教国家ではないのだ。 

なるほど。
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Bangladesh000-Gazipur(旧ブログ2)

バングラデシュ津々浦々シリーズその2 – 遠い未来のこと(ITについて)

2012.4.30

彼はもともとその職業において弁護士であった。著名なジャーナリストの息子として生まれ、幼少時代と青春時代をダッカで過ごしたのち、アメリカのウィスコンシン州へ渡った。
私立のクリスチャン大学で学びながら(お金かかっただろう)、彼はアメリカに十数年を暮らし、アメリカ人の妻をめとった。そしてあるとき思い立って故郷のバングラデシュへ帰ってきた。彼はアメリカに見たバングラデシュの未来から、何かを持って帰ってきたかったのだ。

バングラデシュには治外法権のような場所が幾つかあるが、海外留学(・海外事業)帰り組と呼ばれる富裕層の一部がたむろす場所もそのひとつである。彼らはたいてい海外での市民権を持ち、ダッカのグルシャンに点在するクラブというものに属している。英米オランダ、ノルディック、そしてカナダにインターナショナル。
往々にして本国からの駐在員が孤独を紛らわすためにプールサイドでビールをあおり、市民権を持つバングラデシュ人が自分がかつていた国を懐かしんで羽目を外すための場所である。
彼も例に洩れず帰国後アメリカンクラブに登録し、そこで学生時代の友人(夫婦)と再会し、意気投合したのだった。

アメリカナイズされた彼らはSocialInnovationというような言葉に敏感であり、それらの言葉とそこから生まれるアイディアは、社会起業がもてはやされる昨今のバングラデシュに綺麗になじんだ。この敏感さが、ただのバングラデシュ国内の金持ちの視点とはひと味違うものでもあった(余談だがバングラデシュの金持ちは日本の金持ちよりもはるかに金持ちで、平気で高級車を13台持っていたり)。

そして、アメリカで見てきたバングラデシュにとっての「未来」であるもののいくつかをバングラデシュの現在に引き直して考えてみたある夜、彼らがコツンと行きあたったのはIT格差であった。
デジタルディバイドというやつをなんとかできないものか。都市と田舎の間の。階級の間の。所得の間の。年齢の間の。
もっと様々な層がアクセスできる媒体を作りたいという話から、今までITデバイスを見たこともない人たちが使えるようなタブレットを作ろうというところへ進んだ。アプリを内蔵したタブレット(iPhone二つ分くらいの大きさ)を農村の低所得層の女性たちに配るのである。

ただでさえ様々な分野の階層化甚だしいバングラデシュという場所で、ITに関する階層化はますます激しい。例えばダッカにはWi-Fiが通じるカフェがあるが、一歩ダッカの外に出るとそんなものは知る限り皆無だ。

バングラデシュ政府は2021年を目標に「デジタル・バングラデシュ」(IT産業発展や行政サービスへの情報通信技術の活用、人材の育成)を達成するという構想を掲げている。のだが、インターネット事情はイマイチだ。利用者は総人口の約2割(3100万人)に過ぎない(と偉そうにいっても、9462万人と世界第三位のインターネット利用者数を誇る日本だってWi-Fiに関していうと案外通じないガラパゴスだ)。

インターネット普及率がイマイチな一方で、この国の携帯電話の普及率は高い。国民の半数以上にあたる8800万人程が携帯電話登録をしている(それにインターネット利用に関してもモバイルからのアクセスが95%と、ここではパソコンではなく携帯電話を使ってインターネットに触る)。
ダッカも田舎も関係ない。この国の田舎で携帯電話を見かける確率は高い。田んぼの中で、交差点で、向かいのホームで路地裏の窓で踏切あたりで、みんな携帯電話を片手にしゃべり続ける。

思い返すと私が小学生のころは友人に電話をするにも実家のイエデンをダイヤルしていた。中高生になってポケベルやピッチが現れて、いわゆる携帯電話を手にしたのは高校生活も終わりに差し掛かるころだった。
だから私の中ではイエデン(―ポケベル・ピッチ)―携帯電話は歴史を経てつながるひとつの線だ。
ところがここは、イエデンの国ではなく、イエデンがきちんと普及したこともなく、イエデンをすっ飛ばしてモバイルの国なのだ。

パソコンもそうだ。言われてみれば日本では、元来インターネットはパソコンで操るという思い込みがあった気がする。今でも、パソコン端末からのインターネット利用者は8706万人と、モバイルからの利用者7878万人を上回る(とはいえパソコン・モバイル端末併用者も6495万人(2010年末))。
パソコンからパソコン・iモードの使い分けへ移った私の中でも、パソコンでネット―モバイルとパソコン併用でネットは歴史を経てつながるひとつの線だ。
でもここは違う。パソコンの国ではなく、パソコンがきちんと普及したこともなく、パソコンをすっ飛ばしてモバイルの国なのだ。

一足飛びだ。と思った。

この国に来たときから、なにかアンバランスな感触をおぼえていた。未来と過去が交錯していて混乱するような。
リキシャ(人力車)の横には高級外車が走っている。バイクは少ない。
旧ヒルズ族のような豪邸のルーフトップパーティーで艶やかなドレスを着た富裕層のおばさん「ご婦人がた」が踊り、そのすぐ外では民族衣装を着た物乞いのおばさんが路上で生活している。ハイカラさんはいない。

路上のおばさんに限らない。こちらでは女性の大半は民族衣装だ(私もだ)。南アジア最大級と言われる8階建てのショッピングモールには様々な店が構えていて、その中には洋服の店舗よりも民族衣装(女性の場合はサリー・サロワカミューズ)の店舗の方がはるかに多い。日本では渋谷の109に着物が売っているものか。せいぜい花火シーズンのギャル浴衣くらいだ。
そしてダッカのAWは那覇空港のA&Wよりキンキンに冷えていてWi-Fiも早いが、田舎に出るとそもそもハンバーガーが食べられる食堂なんて県庁所在地の数軒だけであとはどこもカレーだ。エアコンのきいている食堂も少ないしWi-Fiは前述のとおりもってのほか。中庸が見当たらない。白か黒かだ。ここは東京五輪の昭和ニッポンか(私生まれてないけど)、失われた10年の平成ジャパンだ。

「昭和40年代の日本」と呼ばれるバングラデシュの田舎に行くときには、大手電話会社のSIMカードを入れたiPadを持って旅をしていた。電話回線の農村カバー率が高いこの国では最強グッズだ。速度は遅いがどこにいてもインターネットができるというわけ。
バングラデシュ人のお宅にホームステイして、ガスも水道も電気もない家で夜中にネットサーフィンをしていると、ちぐはぐな状況に対する気持ち悪さがある。なんなんだろうこの気持ち悪さはと考えて気づく。私のステレオタイプな発想からすると、ガスも水道も電気もない家には何もない、べきなのだ。ネットサーフィンができる家は何でもある家である、べきなのだ。私が未来から持ち込んだiPadのせいで家の状況はアンバランスになってしまったのだ。そしてこの違和感の中にはなにか後ろめたさも含まれている。

さて話を戻して例のタブレットである。

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Bangladesh000-Bandarban(旧ブログ1)

バングラデシュ津々浦々シリーズその1 – 土地と外縁のはなし(アイデンティティについて)

2012.4.26

バングラデシュに短い冬が訪れたある朝、私たちはチッタゴン丘陵地帯の町バンドルボンへやって来た。ここはバングラデシュの東南部にあってインド・ミャンマーと国境を接し、モンゴロイド系の少数民族が住まう丘陵地帯。アラカン山脈の西のふもとにあって少数民族とベンガル人との間で未だ小競り合いが続く、山がちの美しい地域だ。

少数民族。と私は思う。

この国の人たちは、人懐こく外国人を質問攻めにすることで有名だ。「名前はなんだ」「結婚しているのか」「兄弟は」「仕事は」「給料は」「どこから来たのか」などなどなど。首都ダッカに住んで近所をうろうろしながら、私もときに同じ質問を返す。「そういうあんたはどこから来たのか?」
彼らはたいてい「俺の実家?パブナだよ」とか「うちはボリシャルだ」とかいう。「バングラデシュだよ」なんて殆ど言わない。
アイデンティティというものが人と違う自分としてのかたちやその外縁をいうのならば、どうやら彼らのアイデンティティというのは自分の田舎にあるようだ。

まあそれはそうだ。日本でガイジンに「どこから来たの?」なんて聞かれたら私は「東京」と答える。トルコで同じ質問をされたら私は「日本」と答える。トルコでも同じ質問に対して「僕はカリフォールニア出身だよ」などと答えるのは(一部の)アメリカ人くらいだ。アイデンティティというのは環境に応じて相対的なものである。気がする。特に田舎のコミュニティーのつながりが日本よりはるかに強いバングラデシュでは、いったんコミュニティーの枠を外され、バラバラの個体として共同体意識のうすいダッカへやってきたら、そのバラバラの環境の中で自分の色を見出さざるをえず、自分の持ち物の中でもっとも付き合いが深いもの、たとえばどっぷり浸かっていた田舎のコミュニティーの色を取り急ぎ自分の色とするのだろう。

ものの本を見ると、ここバングラデシュに住む人々のアイデンティティはベンガル人ナショナリズムの影響を強く受けたもので、これは(主にヒンドゥー教ベンガル人たるインド西ベンガル州との対比における)バングラデシュ国民(ないしイスラム教徒としてのバングラデシュ国民)としてのアイデンティティとは一線を画する、などと書いてある。
確かによそ者の目からは、そこここにある「ベンガルっぽいもの」がベンガル人としてのアイデンティティであるように映る。つまり「ベンガル人は自分たちの言葉を大切にするし、パキスタンからの独立のきっかけになったのも母語を守るための運動だった。今もその闘争の歴史はInternational Mother Language Dayに残されている」。(といってもこういった「ベンガル人らしさ」もここに住んでいる人のどれだけに当てはまるのかは実際のところよくわからない。もしかしたら一部の知識人層だけなのかもしれない。)

ちなみにベンガル人というのは教科書的にいうと「ベンガル語を母語とする民族集団でありバングラデシュの人口の99%を占めるが、その居住地域はバングラデシュにとどまらずインドの西ベンガル州などにもわたる」人々。つまり歴史的にベンガル湾沿岸地域に住んでサンスクリット語起源のベンガル語をしゃべってきた人たちの一部である。

さて、こういった「ベンガル人としてのアイデンティティ」をうたう論考は、バングラデシュの歴史がベンガル地方の歴史とセットで語られなければならないということのリマインダーでもあり、「バングラデシュ人」=「(イスラム教徒としての)バングラデシュ国民」などというステレオタイプに対する警鐘として一定の意味を持っていて、読んでいて腹に落ちる部分も大きいし勉強になる。

ただ。これすらも一種のステレオタイプであるような気がしてならないのだ。何かを見逃しているような気がする。
ベンガル人はここに住みながら本当に自分たちのことをベンガル人と思っているのだろうか?非ベンガル人の存在をその内側に意識することなしに?それともそれは自明すぎてみな口に出さないだけなのだろうか?

非ベンガル人である。
ベンガル人がこの国の人口の99%を占めるということは、1%の非ベンガル人がいるということである。この国はベンガル人だけの単一民族国家ではない。
何かを定義するのならばその外縁を見よとならった。ベンガル人を知りたいのならば、非ベンガル人を知るべきなのだ。

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仕事上がりに鍋を平らげるとダッシュで旅の荷物をまとめ、夜行バスでダッカを出てバングラデシュ第二の都市チッタゴンまで向かった。朝の6時半にバスを降りたときにはチッタゴンの街は歯がガチガチ鳴るほど寒かった。そこからローカルのバスを乗り継いでバンドルボンへ向かう。

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Bangladesh000-Dhaka

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バングラデシュは今回がラストになるかもしれない。
この場所は私にとってやはり特別な場所で、20代終わりの迷走に付き合ってくれた国であることは疑いようもなく、それゆえにここにおいて日常と非日常はよく入り混じって、私はいつも壺の中に在るような気持ちに陥る。ひんやりとつめたくて、過去と未来を鏡のように写し、ふれると指先の物体的な感覚を思い出させるような、壺の内側。
単に海外に逃がしてくれたという場所であるだけでもそれでも、住んだということは、1年通じて移り変わる風景を見たということはきっと何か特別な意味を持つことであって、私はその意味をよくよくまくって、久しぶりのダッカを暮すのだ。

2015.1.11

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というわけで、3年前に未完だったバングラのブログ(いま読むと長ったらしいですが)を移管しつつダッカで完結させようと思いますー。って、3年って!!

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So-called Mt.Fuji / 帰る場所

今回の日本滞在はまる2日。出発前夜、いつものラーメン屋で〆じゃないほうのラーメンを食べ、いつもの飲み屋でしこたま飲んで、ついでにもう一軒、新しいバーでウイスキーを飲んでいるともう明け方だった。
オーバーコートとブーツとメイクと、一緒に酒臭さを落としきらないまま家に戻って、返す刀でスーツケースを引っ提げてタクシーに乗り、羽田で朝の〆ラーメンをすすってから、8時50分のフライトで日本を離れた。

2015.1.10

Japan012-Tokyo

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Noodle to come, Yuzu sio-Maro aji / 油おおめ味こいめ麺かため

Taking a walk, drunk, saying hi to something I can’ miss when I’m back in here. 言わずもがな、〆の阿夫利です。

2015.1.8