Bangladesh000-Bandarban(旧ブログ1)

バングラデシュ津々浦々シリーズその1 – 土地と外縁のはなし(アイデンティティについて)

2012.4.26

バングラデシュに短い冬が訪れたある朝、私たちはチッタゴン丘陵地帯の町バンドルボンへやって来た。ここはバングラデシュの東南部にあってインド・ミャンマーと国境を接し、モンゴロイド系の少数民族が住まう丘陵地帯。アラカン山脈の西のふもとにあって少数民族とベンガル人との間で未だ小競り合いが続く、山がちの美しい地域だ。

少数民族。と私は思う。

この国の人たちは、人懐こく外国人を質問攻めにすることで有名だ。「名前はなんだ」「結婚しているのか」「兄弟は」「仕事は」「給料は」「どこから来たのか」などなどなど。首都ダッカに住んで近所をうろうろしながら、私もときに同じ質問を返す。「そういうあんたはどこから来たのか?」
彼らはたいてい「俺の実家?パブナだよ」とか「うちはボリシャルだ」とかいう。「バングラデシュだよ」なんて殆ど言わない。
アイデンティティというものが人と違う自分としてのかたちやその外縁をいうのならば、どうやら彼らのアイデンティティというのは自分の田舎にあるようだ。

まあそれはそうだ。日本でガイジンに「どこから来たの?」なんて聞かれたら私は「東京」と答える。トルコで同じ質問をされたら私は「日本」と答える。トルコでも同じ質問に対して「僕はカリフォールニア出身だよ」などと答えるのは(一部の)アメリカ人くらいだ。アイデンティティというのは環境に応じて相対的なものである。気がする。特に田舎のコミュニティーのつながりが日本よりはるかに強いバングラデシュでは、いったんコミュニティーの枠を外され、バラバラの個体として共同体意識のうすいダッカへやってきたら、そのバラバラの環境の中で自分の色を見出さざるをえず、自分の持ち物の中でもっとも付き合いが深いもの、たとえばどっぷり浸かっていた田舎のコミュニティーの色を取り急ぎ自分の色とするのだろう。

ものの本を見ると、ここバングラデシュに住む人々のアイデンティティはベンガル人ナショナリズムの影響を強く受けたもので、これは(主にヒンドゥー教ベンガル人たるインド西ベンガル州との対比における)バングラデシュ国民(ないしイスラム教徒としてのバングラデシュ国民)としてのアイデンティティとは一線を画する、などと書いてある。
確かによそ者の目からは、そこここにある「ベンガルっぽいもの」がベンガル人としてのアイデンティティであるように映る。つまり「ベンガル人は自分たちの言葉を大切にするし、パキスタンからの独立のきっかけになったのも母語を守るための運動だった。今もその闘争の歴史はInternational Mother Language Dayに残されている」。(といってもこういった「ベンガル人らしさ」もここに住んでいる人のどれだけに当てはまるのかは実際のところよくわからない。もしかしたら一部の知識人層だけなのかもしれない。)

ちなみにベンガル人というのは教科書的にいうと「ベンガル語を母語とする民族集団でありバングラデシュの人口の99%を占めるが、その居住地域はバングラデシュにとどまらずインドの西ベンガル州などにもわたる」人々。つまり歴史的にベンガル湾沿岸地域に住んでサンスクリット語起源のベンガル語をしゃべってきた人たちの一部である。

さて、こういった「ベンガル人としてのアイデンティティ」をうたう論考は、バングラデシュの歴史がベンガル地方の歴史とセットで語られなければならないということのリマインダーでもあり、「バングラデシュ人」=「(イスラム教徒としての)バングラデシュ国民」などというステレオタイプに対する警鐘として一定の意味を持っていて、読んでいて腹に落ちる部分も大きいし勉強になる。

ただ。これすらも一種のステレオタイプであるような気がしてならないのだ。何かを見逃しているような気がする。
ベンガル人はここに住みながら本当に自分たちのことをベンガル人と思っているのだろうか?非ベンガル人の存在をその内側に意識することなしに?それともそれは自明すぎてみな口に出さないだけなのだろうか?

非ベンガル人である。
ベンガル人がこの国の人口の99%を占めるということは、1%の非ベンガル人がいるということである。この国はベンガル人だけの単一民族国家ではない。
何かを定義するのならばその外縁を見よとならった。ベンガル人を知りたいのならば、非ベンガル人を知るべきなのだ。

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仕事上がりに鍋を平らげるとダッシュで旅の荷物をまとめ、夜行バスでダッカを出てバングラデシュ第二の都市チッタゴンまで向かった。朝の6時半にバスを降りたときにはチッタゴンの街は歯がガチガチ鳴るほど寒かった。そこからローカルのバスを乗り継いでバンドルボンへ向かう。

旅の道連れと合流したのちカレーとポロタ(クレープ状のナン)の朝ご飯を済ませ、8時を回っても日はのぼらず空は白かった。風はぴゅうぴゅうと束になってすきま風のいやらしさ。久しぶりに苦行のような旅で、バンドルボンゆきのバス停もやすやすとは見つからない。ふたつ、みっつとたらい回しにされてやっとたどり着いたバス停でもしばらく目当てのバスは見つからず、みな思い思いにうろうろしながら待っていたら、その辺に止まっていた壊れそうなバスが突然バンドルボンゆきに形を変え(変幻自在の行き先はまるで猫バスのようだ!)、全員を乗せるか乗せないかのうちに発車した。

目が覚めると山の麓にいて、山肌は太陽にさんさんと照らされてふかい緑色をしていた。心なしか汗すらかいている。晴れたのだ。さっきまでの灰色の朝が嘘のように、バンドルボンの小さな町はきらきらと明るく、あたたかかった。
昨日の夜ダッカを出て、急に世界が変わったようだった。それもそのはず、ベンガル湾沿いのデルタ地帯に位置するバングラデシュは国土のほとんどが低地であるが、ここは珍しく山あいの町。久しぶりに見る山の緑である。

それだけではなかった。外に出て、試しにCNG(天然ガスで走るトゥクトゥク)の運転手にいつもの質問を投げる。果物屋のオヤジにも食堂のオヤジにも投げる。「オジサンどこから来たの?」
「僕はチャクマだ」「マルマだ」答えてそんな風に彼らはいう。
これだ、これこれ、と私は舌なめずりをした。彼らは自分が「バンドルボン出身」であるという代わりに、自分が「ある民族出身」であるというのだ。
これは単純にアイデンティティが相対的ということのひとつの証左に過ぎないのか(例えば同じ質問をダッカでしたら彼らは「バンドルボン出身」であるというのか「ある民族出身」であるというのか)、それとも彼らのアイデンティティ自体が場所になく、民族としての出自にあるのか。おもしろくなりそうだ、と思った。

ところが私たちの旅は進むうちに、「彼らの民族が何か」という質問がメインになり(もしかすると初めからアイデンティティ云々とか思っていたのは私だけだったのかもしれない)、単純に「オジサン、ボン族?」「お、あたった?やったー俺すげ!」「さすがチャクマ!」(同行者のひとりはその風貌がチャクマ族の人に似て、みなにチャクマと呼ばれていた)というような民族当てゲームになってしまった。

そしてこの町の界隈には確かにたくさんの少数民族が住んでいた。

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ここにもともと先住していたのはチャクマ族やモン族、マルマ族などの民族だった。先住民族であった彼らはムガル帝国の時代に、藩王というような形で外国の統治を受けるようになる(今でもこの地方には王様がいる)。外部の統治はイギリス占領下時代も続いたが、この時代、ベンガル分割令と前後してイギリスのとったチッタゴン丘陵地帯政策が火種となり、ベンガル人と少数民族との間の諍いが始まる。イギリスは、ベンガル人を牽制する目的で丘陵地帯の民族に一定程度の統治権を与えたのだ。この政策は、少数民族を押し出そうとベンガル人の繰り広げる入植政策に対し、これに対峙するための少数民族の権利の根拠として今も主張されていて、おかげで諍いはいまだ絶えない。1997年にチッタゴン丘陵地帯和平協定が結ばれた後のいまもだ。押し出された彼らの一部は国境に阻まれ難民となる。まったく、大英帝国の民族分離政策はいつもそこここで禍根を残す。

先住民族はバングラデシュのインドからの独立時にインドまたはミャンマー側に入ることを望んだがかなわず東パキスタン(現バングラデシュ)に編入された。つまりこの地域はバングラデシュという国の国境に縁どられ、インドでもミャンマーでもなければバングラデシュでもない。「僕はチャクマだ」「マルマだ」った。

諍いといえば、私たちがバンドルボンの町から南東へしばらく上ったニリギリ峠へ向かっているとき、ところどころチェックポイントに出会った。国境付近の山中にあるここら一帯は軍の管理下にあり、私たちは名前を記帳しなければならなかった。ある友人はRyotaro Shibaと記帳し、私はHaruka Ayaseと記帳した。また別の友人はジャーナリストという職業柄、チェックポイントを警備する軍の装備をみて、ウームなるほどなどと呻いていた。素人の私にとってはなんとなく遠い世界のことのように思えたが、彼にとってはウームなるほど、らしい。治安の良さではピカイチのバングラデシュでも、注意レベルをはるかに引き上げなければならない場所があるようだった。ここはまだ紛争地帯なのであった。

峠に着いたのは日没直前の5時で、夕日は金色に輝いていたが、峠の景観はどうということはなかった。一泊7500タカ(私たちの安アパートの半月分だ!)のリゾートコテージ風な部屋に侵食されて庭のようになっている山頂に鼻持ちならない金持ちベンガル人がうようよいて、小汚い4人の外国人旅行者(しかもうちひとりは風貌チャクマ族)に胡散臭そうな目線を投げる。警備の軍隊はここにもいた。この峠も昔は少数民族の村だったという話だった。
山から下りる道はただただ寒かった。山道は真っ暗になっていて、オート(電気自動車)のまわりをホタルがちりちり舞っていた。

前日の寒さが嘘のように翌朝はピカピカ気持ちの良い快晴だった。
私たちはキンキラキンの上座仏教のパゴダを拝んで町へ戻り、食堂に入ってたまごカレーを平らげる。
「指かわくわー」食堂でたまごカレーのおかわりを待たされている間、食べかけのカレーご飯に右手の指を浸しながらぼやいていたら給仕の子どもが真似ていう。「ユビカワクワー」完璧な発音だった。子供は呑み込みが早い。気づくと連れの友人と子どもの間で「指カワクワー」のキャッチボールが始まっていた。

満腹になった私たちは小川のほとりへ散歩に出かけた。
川沿いに集落があり、母子がお昼の準備をしていた。野菜の葉を母が洗うさきから子がむんずとつかんで引きちぎる。「ガイジン!」彼女らも少数民族だった。子どもはBangladeshと書かれたクリケットのチームユニフォームを着ていた。
その隣の家からも家族が出てきていった。「ガイジン!」そこはベンガル人の家だった。ベンガル人の生活領域はここまでも拡大しているようだった。

特に何かを決めていたわけではなかったが、川原に下りて小舟を発見した私たちは自然と船頭との交渉を始めた。1時間半、往路のみで300タカから。悪くない。
藁で出来た屋根付きの小舟に滑り込む。エンジンのモモモという柔らかな音が川面に反射して小舟はゆっくり進んだ。川原に洗濯をする小母さんがたくさんいた。マッチを擦って午後の太陽に煙を吹き出す。さざ波がたつ。気づくとまどろみの中にいた。

「対岸で降りるか」
どこかで誰かが言った。どちらでもよかった。とにかく暑かった。うだるような昼下がりの日差しの中、私たちは対岸に小舟を付けて川べりを這い上がった。

そこには小さな村があって、小汚い4人の外国人旅行者(しかしうちひとりは風貌チャクマ族)に子供たちが群がる。つられて大人も群がる。「この集落に寄っていけ」「茶を飲んでいけ」「ところでお前たちはどこから来たんだ」
いつものことだ。どこにいったってこの国では私たちはガイジンとして、こうやって興味を示されて群がられる。お茶をごちそうになって、仕事ぶりを見せてもらって、小母さんと雑談して。歩き出すとハーメルンの笛吹さながらに子供たちの列ができる。いつものこの国だ。そしてランダムに選んだこの集落は、いつもの通りのベンガル人の集落だった。

暇乞いをした私たちの後を子供たちが追いかけてきた。田んぼのあぜを越え、ぬかるみの中に道を見つけ。ずんずん歩く。そしてふと気づくと、ある一線で何十人もの子供たちの姿が消え、私たちの後にいるのはたったの3人になっていた。

隣町だった。あんなにギャースカ騒いでいた子供たちはその線でぴたっと歩みを止め、手を振った。隣町は彼らにとって異世界なのだった。この線をまたいだズッコケ3人組は明日にはクラスの勇者になっているんだろう。
隣町ですれ違った思春期の集団に「なに族?」と聞いてみたらチャクマ族だった。ハーメルンの巻きなおし。ベンガル人のズッコケ3人組とチャクマの子供たちと、また新たな連れができた。
ワイワイと橋の袂まで歩きながら、小学校のころ隣町が次の世界に見えたことを思い出す。

ああ、隣町だ、と思った。アイデンティティというのは環境に応じて相対的なものである。隣町に溢れ出さなけれ分からないのだ。

自分の構成要素でひたひたになっているうちはそれはアイデンティティにはならない。小学生のときの私もそうであった。隣町へ出るまでは自分がこの町の住人であることに殆ど気づきもしなかった。日本にいる時分の私もそうであった。自分が日本人であることに殆ど気づきもしなかった。圧倒的に無重力の世界にばらばらにされて放り出されて、自分の色が並べられたカタログの1ページの、ディスプレイのひとつに過ぎなかったということが分かって初めて「自分の」アイデンティティというものがわかるんじゃないか。
そしてそういった「彼らの」アイデンティティにどこでものさしを当てるか、それは測る人である私次第なんだけれども、そんな伸縮可能なものさしで測ってみても、私が測るものと彼ら自身のアイデンティティとは別のものなのだ。結局私には実際のところは分からないのだ。彼らがここからが隣町でここからが自分たちの町だ、と思うその一線がどこに引かれているかなんて、よそ者である私には分からないのだ。

考え事をしていたら周りが騒がしくなってきた。やけに盛り上がっていると思ったら、道連れのひとりが子供たちと一緒に私を指さして笑っている。
「Unar nam ki(彼女の名前はなあに)?」
「Unar nam(彼女の名前は)yubi kawakuwa(指かわくわー)」
「Apa(ねえちゃん)!ユビカワカワー」
「エビカワカワー」
「おい!」
「カワカワー」
なんだか急にばかばかしくなってしまった。

 

子供たちとは橋の袂でお別れだった。彼らにとってはこここそが最後の国境なのだった。国境の向こうから手を振りながらキャラキャラ笑う彼らに私も手を振る。「カワカワー」「また来るねー」「カワカワーバイバーイ」
橋のこちら側にはまた別の子供たちがいて、得体のしれないガイジン4人組にくっついてぞろぞろ歩き出す。ひとりがカメラを向けると、皆そろって直立し恥ずかしそうに笑う。どこでも一緒だ。

アイデンティティというものが人と違う自分としてのかたちやその外縁をいうのならば、それは誰かが外から線引きするものではない。
ある場所の中にひたひたになっている自分が仮想に現実に外に出て気づきを得て、環境に応じて相対的な自分のかたちを自分で確かめるものなのだ。自分の外縁を引くのは自分なのだ。そして自分たちの外縁を引くのは自分たちなのだ。
私はバングラデシュの外でチャクマの人に会ってもう一度聞いてみよう。「あなたはどこから来たの?」と。彼らはそこでも同じようにチャクマというだろうか。それともバングラデシュだというのだろうか。

子供のひとりと手をつないで歩きながら、私はもう「どこから来たの?」をやめることにした。私はただ、ここの皆が何を大事にしているかを、もうちょっとここで暮らしながら探ればいいと思った。
まずはそれよりもっと直接的でもっと明らかなアイデンティティを聞いて回るのだ。

「Tomar nam ki(キミの名前はなに)?」

(参考:大橋正明、村山真弓編「バングラデシュを知るための60章」、チッタゴン丘陵地帯支援団体Jumma Net URL http://www.jummanet.org/)