Bangladesh000-Paharpur(旧ブログ3)

バングラデシュ津々浦々シリーズその3 – 遠い過去のこと(ベンガル仏教について)

2012.5.2

ひとはにおいによって昔の男を思い出すとかいうが、まあそれもそうなんだが、私はおとによって昔の旅を思い出す。

バングラデシュに来てしばらく経って、もう慣れていたと思っていたけれども、夜更けにアザーンが流れると未だにハッとすることがある。何年も前に中東を旅したときの記憶がとても鮮明に思い出されるのだ。
一連の旅の最終編で、トルコからシリア・ヨルダンを抜けてイスラエルへ入って、オリーブ山の丘からエルサレムの小さな旧市街を見下ろしていたときのこと。
夕暮れの空にキリスト教会の鐘が響き、鐘の音のもとに照らされていたのは嘆きの壁に向かって祈るユダヤ教徒だった。「そんでここからここはアルメニア人」と誰かが教えてくれた。

ユダヤ教超正統派の居住区を連想し、新約聖書の教会を連想し、シオンの丘を連想した。象徴的なものが極限まで混ぜられている色が、どうしようもなくまがまがしく、それでいてやはりこの旅で見てきたどこよりも美しい、と一番星を仰いだそのときに、アザーンが風に乗ってやってきて深い孤独をしたたか打った。
ここはイスラムの場所なのだ、と私はそのときぼんやり思った。
それはただの偶然だったけれど、単純に今までイスラム教国を回ってきた残像に過ぎないのかもしれんとも思っていたけれど、それでも私はアザーンの音を美しさ、というものに聞いたのだ。
政治的な云々はもちろんあるし、このときの感覚が私のパレスチナ問題に関する意見の表明というわけではないが、なんにせよ私はあの圧倒的に孤独なアザーンの音にゆくりなくのされてしまったのだ。

ベトナム・カンボジア・ラオスと東南アジアの旅を終えてバングラデシュへ入ったときも私はアザーンの音を聞いた。そしてこのごっちゃりとした町並みに案外すんなりと思った。
「ここはイスラムの場所なのだ」と。

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バングラデシュはイスラム教徒が約90%を占めるイスラム教国とされている。
しかしこの界隈がイスラム教になったのはそんなに昔の話ではない。イスラム教化は13世紀半ばのセーナ朝滅亡後から少しずつ進んでいたと言われているが当時は未だひとにぎりであった。ムガル帝国のもとでもヒンドゥー教王朝も容認されていて、ベンガル地方もべったりイスラム教だったというわけではないようだ(イギリス支配開始と前後する18世紀頃、ベンガルデルタ開拓とともにイスラム化が進んだという説もある)。

イギリス領インド帝国時代、イギリスがベンガル分割令を出したころにはなんとなくイスラム教徒が多くなっていたようだが、それでもまだ100年前の話。東パキスタンとしてインドから分離独立したときにも実はヒンドゥー教徒は1/4ほど残っていて、今の割合まで来たのはパキスタンからの独立運動のうちに彼らが迫害されて押し出され続けたからなのだということだ(とはいえ今でもヒンドゥー教のお祭りなんかは盛大に祝われていて、意外とヒンドゥー教徒とイスラム教徒は共生している)。
バングラデシュはパキスタンと一緒に独立したことから、イスラム教国としてのアイデンティティが重視される傾向にあるが(そしてベンガル人アイデンティティとの対比で語ろうとする研究者たち)、ここは単一宗教国家ではないのだ。 

なるほど。
だんだん面白くなってきて、「ではヒンドゥー教国としてはどこまで遡るのか」と問いを立てて調べたら12世紀ごろだった。その前はここはなんと仏教国だったのだという。
グプタ朝のころからベンガル地方としてまとまりをもつようになったこの場所に、8世紀半ばパーラ朝が興り、この王朝は仏教王朝として栄えた。そんなパーラ朝も、時の流れとともにセーナ朝にとってかわられ、ここら一帯の宗教も仏教からヒンドゥー教へと飲みこまれていったといういきさつだった。
仏教遺跡のパハルプールは、そんなパーラ朝の、第二代ダルマパーラ王が建てたソーマプラ大僧院の跡である。バングラデシュに3つある世界遺産のうちのひとつだ。 

何かを定義するのならばその表皮を疑えとならった。バングラデシュを知りたいのならば、その表皮をひっぺがさなければならないのだ。歴史を遡るボーリング作業もそのひとつだ。
今のバングラデシュを剥いで、次に出てきたヒンドゥーの時代を剥いで、そこに現れしは仏教と来た。俄然興味が湧いてきた。

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パハルプールからほど近いジョエプールハットの町にたどり着いたのは夕暮れどきだった。
友人に「さみしがり屋の孤独好きにぴったりの宿ですよ」と言われた宿を目指してみるも、リキシャもオートも行ったりきたりでなかなかたどり着かない。
夕日を肴にペットボトルに詰めたウィスキーをちびりとやるのは諦めても、初めての町で暗い中宿のあてなくうろうろするのはNGと決めていた。刻々と日は暮れていって気ばかり急く。
何度かの喧嘩を経てやっと目当ての宿が見えたときには、日の暮れかかった町は淡い紺色の風呂敷にすっぽりとつつまれていた。少し肌寒かった。
少しもめてリキシャから降りた私はその宿の門をたたき、友人に教わったとおり何かの暗号のように「屋上に泊まりたい」と告げた。
宿のお兄ちゃんはニヤリと笑ってOKルーフトップねと答え、玄関の扉を開いた。

その日はボグラの町からモハスタンの遺跡を回って、バスでぎゅうぎゅうになりほうほうのていでジョエプールハットに着いた私は埃まみれでぐったりだった。
バングラデシュの人たちのご飯は遅いので、このままだと9時まで待たされそうだったが、お昼をパンとバナナで済ませた私はとうてい3時間も待てそうにない。
部屋を見るよりも前に「お腹すいたよー」と片言のベンガル語で訴えていると、宿を経営しているNGOのおやじがにこにこと近寄ってきて、「お嬢ちゃんの頼みとあらば仕方ないなあ。特別に7時半にしてあげよう」などという。
その屈託のない笑みにありがとうと言ってなんとなく雑談して(雑談はバングラデシュ名物だ)、やっとこ鍵をもらって屋上へ上ったら、星の散りばめられた暗闇がすこんと見えた。
部屋は文字通りルーフトップにあった。 

7時半きっかりに準備されていたカレーはとびきりのうまさで、ちょっと涙が出そうなくらいだった。私は指先の乾く間もなくかき混ぜたご飯をすきっ腹に掻き込んだ。こんなうまいものを急いで用意してくれた宿のひとたちのあたたかさこそが私の孤独を破るに足るものだと、私は星を見に7階分の長い階段を上った。
翌朝目覚めると遮るもののない部屋の中に朝日が強く差し込んでいた。秋の始まりの風やわらかな、雲ひとつない青空だった。

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パハルプールは大きかった。

一辺330mの敷地の中に、僧坊177、台座72、赤庭に仏舎利塔の伽藍配置。インドのブッダガヤから僧侶たちが通ってきたと言われるこの大きな僧院。

今や断面図のようになっているけれども、残されている基礎部分の上には、1200年前には楼閣が生えていて、ここで多くの僧侶が修行していたのだ。
その僧院が今目の前にゴロリと横たわって熟れ始めた太陽に照らされている。何重にも積み重ねられた台座の崩れそうな階段を一段ずつ登っていくと汗がじわりにじみ出る。壁に刻まれたテラコッタ(2800枚に及ぶという)はだいぶ古びていながらも神やひとや動物のかたちを保っている。

 しかし私を捉えたのはその壮大さではなく、遺跡への登頂禁止という興ざめ感でもなく、何かおかしいぞという違和感だった。ここに足を踏み入れたときから感じていたその違和感の中身に気づくのに時間はかからなかった。
人がいないのだ。

どこに行っても人がいることで有名なバングラデシュで、白昼堂々ひとりになれる場所なんてないと思っていた。しかしここは違う。
バングラデシュならではのおかしさだけではない。世界遺産というものはどこに行っても人でいっぱいだった。マチュピチュ、アンコールワット、ボロブドゥール。ここも世界遺産のはずなのに、あまりに人がいない。 

もうひとつの世界文化遺産、クルナ近くのバゲルハットのことを思い出した。お昼に着いて見どころないね眠いね暑いねとモスクの中で昼寝していたら、ワラワラと人が集まってきてお前ら起きろという。今からお祈りだからそんな不謹慎に寝ていないで、祈るか出ていくかしなさいと。そのときこの遺跡はまだ生きているのだと思って、私は連れをせかしてモスクの外の木陰で昼寝の続きをしたのだった。
生きた遺跡と死んだ遺跡。そういう意味ではパハルプールは紛れもなく死んだ遺跡であり、紛れもなく遺跡であった。

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遺跡をかっとオレンジに染める西日に酔ったようになりながら私はもう一度、この土の記憶をたどるように整理し始めた。

・ここはベンガル地方に最後に栄えた仏教の跡地である。
・ここの建築様式は遠くパガン(ミャンマー)やアンコールワット(カンボジア)の建築様式にも影響を与えたと言われている。
・つまりここで流行った仏教はアラカン山脈を越えて東南アジアへ流れた。
・その後この地では仏教は衰退。ヒンドゥー教になし崩し的に吸収されるようなかたちで姿を消す。
・ここでは姿を消してもどこかに伝わったならよかったね、ベンガル仏教。

ひと皮かふた皮か地層を剥いてみて、ここまで来るときに寄り道した東南アジアの旅と、今ここにあるものの昔と、遥か日本とを結ぶ面が見えたような気がした。
地続きということか。それは大きな発見だった。アラカン山脈以西(南アジア)とアラカン山脈以東(東南アジア)は人種も言語も習慣もこんなにも違ってみえるのに、まさかの宗教という面で昔はつながっていたのか? 

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そこまで来たところでカップルがやってきて、カメラを構える私の前に立ちはだかっていちゃいちゃとし始めた。ピンクの布で頭を覆った女の子は彼氏だか夫だかにもたれかかっている。彼女のささやきは小さすぎて後ろにいる私にも聞き取れない。ブリコビッチめ煩いな!こちとら帰ってウィスキーをやってやる、と、私は遺跡に背を向けた。

宿の屋上でひと息ついたらちょうど夕日が町の中へ沈み始めていた。がちゃがちゃ立ち上る生活の音の猥雑さを覆うように、夕方のアザーンがふりおろされる。私は残り少なくなっていたペットボトルのウィスキーを部屋に備え付けのグラスに注ぎ、けっしてアル中ではない、とひとりごちながら水でうすく割る。黄金色の液体はグラスの中で夕日を受けてキラキラとしていた。

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夜が来た。
相変わらずうまいカレーを平らげて手を洗い、またひとりになる。星空にもウィスキー。風もなく音もない夜だった。
田舎の夜らしくよく冷えるので、カマキリ色のユニクロのダウンを着こみ、部屋から毛布を引っ張り出して自らをくるんだ。頬ばかりがきりきりと風にとられた。とてもひとりだ、と思った。
突然彼方から電車の音が割り入る。その音に少しだけ人間だったころを思い出して、どういうわけか少しだけ安心してマッチを擦る。 

こんな夜にこそアザーンが聞こえないかなと思った。真っ暗な暗闇の中でウィスキーの香りに身をうずめながら、ときどきそよぐ夜風に感覚だけが研ぎ澄まされていく。余計に自分がどこにいるのか分からなくなる。
でもそんな夜に限って私の孤独を邪魔してくれるものはなく、星は空高く、遠いところに瞬いていた。はるか遠いところだ。 

私は膝をつつむ毛布に目を落とし、暗い地面に目を凝らした。
この屋根の上から7階分下りて、土の中へ潜ってみる。ボーリングだ。バングラデシュを知りたいのならば、その表皮をひっぺがさなければならないのだ。

今日パハルプールでバカップルに邪魔される前に見たイメージを思い返す。
一枚、また一枚。巻き戻しを進めるとヒンドゥー教徒があらわれて消え、仏教徒に代わられる。次は場所を右に移して早送り。それは東へ流れ、東南アジアへバトンタッチしたのち、立ち消えていく。
表皮の下にある基底がつながっているというところまで来てはっとした。ちょっと待った。
今ミャンマー以東にある仏教は上座仏教だよね。昔ここにあったのは大乗仏教だ。
上座仏教は大乗仏教と別れて南下していって、スリランカに定着したんじゃなかったっけ。
ミャンマー・タイ・ラオス・カンボジアあたりを席巻した(そして今も続く)上座仏教はあれはスリランカから海の道で伝播してきたものなのだとしたら。ここを通っていないのだとしたら。

連続性があるかに見えたアジアの地層が、また少しずつ離れていった。
ここにあった大乗仏教はいったいどこへ消えたんだろうか。 

音なき闇がやはり音を立てずに破裂して、星空に吸い込まれてしまったみたいだった。地続きだと思ったこの面にはやはり大きな亀裂があった。アラカン山脈を隔てて、西と東とはまだなんらかの断絶状態にあった。その断絶を越えて伝わったかに見えた大乗仏教。次の世代にバトンタッチしたつもりが、実は孤独に死んでいったのかもしれない。 

屋上の一角だけがブラックホールに吸い込まれたようでアザーンはついに鳴らず、耐えきれずに私はマッチを擦った。チリッという音とともに突然世界が現れ、すぐにまた闇に沈んだ。
ふたたび風もなく音もない夜。星空の下には圧倒的な孤独があった。私はそれを美しさ、と思った。

 

(参考:大橋正明、村山真弓編「バングラデシュを知るための60章」第3章、旅行人ウルトラガイド バングラデシュ改訂版)