A tea stall I frequent vol.2 / 行きつけのチャイ屋2(火事)
行きつけのチャイの露店が燃えて青空になってた。2日前に火事でね、と店主のおやじがいう。たとえ店構えが空に消えてもチャイの味はいつもとおなじ、はなたれ小僧どもの絡みもいつもとおなじ。生きるのだ今日も。
2015.3.3
Cooped-up in Dhaka / ボンボン・ディアスポラの憂鬱
4年前に初めてやってきたときから仲の良いバングラデシュ人の友人たちに、ボンボン・ディアスポラ連中というのがいる。
バングラデシュは独立してからまだ40年余の若い国だ。独立戦争の英雄世代は日本でいう団塊の世代で、彼らは国を作ったという自負を持って政官財界を回している。つまりバングラの富も人材も彼らが独占しているというわけだ。その富をもって、彼らは娘息子たちをイギリスに留学に出す。ある者はそのまま外に住みつき、ある者はディアスポラとしてバングラに帰り、中古車輸入か不動産ビジネスを始めて荒稼ぎする。
その娘息子世代がちょうど私と同世代の30前後だった。ひょんなことから一人と仲良くなるとその背後にあるアラサー・ディアスポラ世代の世界と芋づる式に仲良くなることになる。アメリカ人主催のホームパーティーなんかに行くとその中の何人かに出会う。ダッカは狭いからねえ、と、お決まりの挨拶。酒を飲む者もいれば飲まない者もいて、みな一様に、よく歌いよく踊る。
ICDDRBとか国際機関のインターンで20代の欧米人がダッカに来ると、彼らがダッカの流儀を教えてもてなす。新しいモダンなカフェができると彼らが発信する。たいていオーナーは外国帰りのボンボン・ディアスポラ仲間だ。
誘われてコンサートに行くと、90年代とか2000年代の欧米ビルボードチャートを飾った古くさいロックに彼らが喜び勇んで踊っているのを見る。ノンアルコールなのに、オアシスとかニルヴァーナとか果てはボンジョヴィまで、どうしようもなくダサいロックに思い出価値を付加して歌っているのを見る。
そしていつしか私は気づくようになる。ダッカに帰ってきた彼らは飢えている。あの広い世界に、あの輝く青春に、あの自由に、あの不安定さに、彼らは飢えている。
PhD取りに外国行こうかなとひとりが言う。俺ももう弁護士やめようかと思ってるんだよ、ともうひとりが答える。この街の窮屈さに、この街の保守性に、窒息しそうになりながら、この街のぬるさに、この街の気楽さに、この街の安定に、足を取られて動けない。どのみちもうすぐ結婚するのだ。どのみちもうすぐ家を継ぐのだ。どのみち僕らはここに戻ってくるのだ。私は痛みに似た共感をもって、彼らと一緒にノンアルコールのコンサートに歌う。諦めと前進はコインの表裏だ。どのみち私も東京に戻るのだ。
2015.1.23
Living like one big family / 長屋の団子8キッズ
高級住宅地とスラムはすぐ近くにある。この寒い中(といっても10度とかだけど)、焚き火にあたりながら路上生活をしている家族もたくさん見る。子供たちはリキシャをアスレチックに走り回っているし、おっさんたちは顔じゅうぐるぐるマフラーを巻いているし、寒そうにしているのは焚き火のまわりで暖をとるおばさんたちだけだけれども。
子供たちはカメラを向けるところころと走り寄ってきて我先にとカメラの前でポーズをとる。飛び跳ねたりピースしたりとポーズもばらばらだ。何度かとっているうちにやっとまとまって、みんな団子のようになったのを写真に収めて、ちょっと雑談して去る。昔はきっと、この子達どこに住んでいるんだろう、学校行ってるのかな、ご飯なに食べているんだろう、病気になったらどうするんだろう、などなどなどなど、私の範疇にないことにたくさん気をもんでいたりしたかもしれないけれども、今じゃそういうことを考えなくなってきた。代わりに、彼らの暮らしと私の暮らしを結びつけるものはなんなんだろう、と、ただそれだけを考える。何度も何度も、考える。
2015.1.18
First spring storm / 春一番
つめたい朝の秋風の中にふんわりと、なまあたたかい流れが混ざるのが目にみえる。マーブル模様のように目にみえる。
夜更けにいやな夢をみて目覚めると、点いていたはずの枕元の灯りが消えていた。夜の間に停電したらしい。泥酔して書きかけの日記があった。
窓の向こうからばしばしと規則的な音が聴けてまるで乾いたドラムの打ち込みだ。布団の中にもう一度かたく身を忍び込ませて、どろりとした頭を整理する。そうだ、これは、雨の音だ。
窓のかたちに四角く切り取られて、プラスチック状の白い雨が、がちがち、がちがち、同じくらい白く明け始めた空から落ちてきていた。ぬるい空気が立ちのぼって、窓越しに私の鼻先まで届いた。がちがち、がちがち、雨はつづく。春の雨だ。朝はもうねむれない。
2015.1.17
Winter stall / 冬ピタパン
バングラにだって冬が来る。
夜になると気温は10度まで下がるし、布団も一枚じゃ寒いし、そこらじゅうにたき火の赤あかと燃えるいろが見える。道ゆくおやじはマフラーで顔をぐるぐる巻きにして、しばれるーと肩をすぼめる。
冬の風物詩のひとつにピタパンというのがある。(たぶん)米の粉でできたふかふかの蒸しパンのようなもので、道端で焼かれてはココナツや砂糖やはちみつをかけて一枚10タカ(15円)で売られている。
はじめてバングラに来たときも冬だったので、ピタパンからはバングラがまだ生のまま鮮度をもって横たわっていたときのにおいがする。空気がかさかさに乾いてつんと寒い冬の朝の、日が落ちてアザーンを乗せる風のひんやりと心地よい冬の夕方の、かすかに甘さを残したやさしいにおいがする。
今日のピタパンはココナツが多くてちょっと喉に甘かったけれども、湯気がのぼるほどにアツアツで、指でちぎるとほろりとくずれた。売り子のおやじが「わし、ナマズ(お祈り)行くで」と言って屋台をそのままにモスクに入っていくのを見送りながら、私はふかふかのパン生地をかき集めつ、ココナツの粉を舐めとりつ、モスクの向こうに暮れる夕日を見ていた。
2015.1.12
バングラデシュ津々浦々シリーズその8 – ふたつの夢(過去と現在のこと)

2013.1.25
あの場所から遠く離れたアフリカの東の端で、小さな宿の裏庭に私はマッチを擦った。ちりりと針で刺されたような痛みが顔じゅうに触れ、たちまち昼下がりの、赤っぽい風のすそのふくらみに紛れる。
何せ煙草をひらくのは半年ぶりであった。この痛みが煙草の先端に火のうつる手触りのそのものであると気づくのに少しかかった。もしかするとそれはひりひりとあたたかい郷愁であったかもしれない。
季節をなくしたするどい日射しは大木の、毛細血管のようにこまかく広がる枝葉を透いて、膝のうえに載せたタゴールの詩集に染み込んだ。タイから来た樹だとこの宿のオーナーは言う。名前は知らない。うす桃色の儚い花びらが、ぽろぽろと鈴なりになっている。この街は年じゅう誤りなく春の色をしているので、花のにおいは寸分たがわず淡かった。風も花も陽の光も、かたちをなくそうとしている記憶のように、何もかもが気まぐれにゆっくりと通り過ぎた。
急がねばなるまい。私は焦って煙草をほそく吹いた。
吐き出す煙はふわりとやわらかく、綿状にひらいて私の裏庭にゆき渡った。いが、が、喉の奥をがりがりと何度も引っ掻くので、私はおそるおそる目を閉じる。
煙の中になにかが居る。光につつまれて瞬間的に私は悟った。焼け付くような痛みが追いかける。チカチカと突き刺さるガラス質の欠片がある。このこがね色一色の万華鏡は、私の過去と記憶を隔てる浸透膜の、こまかなつぶなのだろうか。目の潰れそうなほどのまぶしさにそれでも目を凝らすと、煙の中の世界はかろやかなベンガル語の、ラロン廟で歌われていた歌たちの屍で敷き詰められてあった。それは死んでいた。
死ぬを始めて半年が経ったばかりなのに、たしかに死んでいた。
バングラデシュの首都の、ダッカに暮らした1年半の過去を、その後の旅はすでに殺してしまっていたのだった。
私はちょうど半年ほど前にダッカの小さなアパートを出て、ヨーロッパに飛び、アフリカで数ヶ月を過ごしていた。その半年の旅の間に、バングラデシュにたしかに存在していたはずの私は姿を消していた。過去は皮を剥がされたのち、肉を屠られ内臓を破られ、骨を砕かれていた。たくさんの血が流れた。
消化され尽くしてこなごなになった過去は、気づくとぼやけたけむになっていた。パッケージとしての、記憶のかたちはいつも不確かだ。私はほとんど意図的に、そのけむをビニールでぐるぐる巻きにして、記憶と書かれたステッカーを貼っていた。そして押し入れの中にぎゅうぎゅうに詰めて、後からどんどん新しいものを放り入れた。
ダッカの喧騒と排気ガスのたてる埃っぽいにおいは、エチオピアの、アディスアベバの道路工事の乾いた石つぶのにおいに。
地方都市タンガイルへ向かう幹線道路沿いを、色褪せた緑の茂る音は、ケニアのマサイ・マラの、サバンナに広がる茶色い草たちの引っ掻き合う音に。
インド国境にほど近い街ラッシャヒを滔滔と流れるガンジス河を照らす、夕陽の燃えるような赤さえも、ジブチの海にしずむしずかな桃色に、綺麗にとって代わられた。
旅はまだかろうじて、非日常という名をした荒削りの石に彩られて、新陳代謝を繰り返していた。
私の内にある記憶は撹拌された。それから私の身体がとどまるアフリカ大陸に追いついた。記憶の上澄みにバングラデシュがせり上がってくることはもうほとんどなかった。
半年が経っていた。

その夜、乾季のナイロビに珍しく雨が降った。うすいナイロン地を通じて、テントに夜の雨が忍びこむ。草がさらさらと鳴る。まるで涙の落ちる音のようだ。生々しい土にかすかに犬の糞尿がまざった、そのにおいは少し腐ったやさしい泥水のにおいで、バングラデシュの雨季のにおいに似ていると私は思った。
バングラデシュ津々浦々シリーズその7 – 未来のようなもの(すぐ先にあるもののこと)

タンガイルに来た。いつものようにダッカの喧騒を一本そぎ落としに来たのだ。
人の圧力と熱気にぎゅうと押しつぶされるバスの中。びっしり汗をかいて目覚めると、車掌の男の子が通路から私の腕をつついて何事かつぶやいている。私は暑さで押しつぶされた夢から這い上がったばかりで、なかなかそのつぶやきを耳に染み通さなかった。
「プロノバススタンドに着いたよ!降りて」
時間をみると12時45分。ダッカからきっかり3時間。ぐっすり眠っている間にバスは無事タンガイルに着いたようだった。
私は桜の散り際の東京から戻ったばかりだった。つい一週間前まではやわらかくくすんで消えそうな薄光の中にいたのに、盛夏のバングラデシュは容赦ない直射日光で、急にスポットライトを浴びたような気持ちになる。
タンガイルもとにかく暑くて、その頃の私には考えなければならないことがたくさんあった。ひとつ案件が終わるころで、ひとつ進路の決断もして、さて、これからどうするの?
近い未来も遠い未来も考えなければならないことはたくさんあったが、未来のようなものはまだもうもうと土煙に巻かれて見えなかった。
でもそんなのいつものことだ。未来のようなものはいつだって見えない。私はいつだってフワフワと浮ついて生きている。
ちょうど日本人の旅行者が「あなたの夢はなに?」というテーマで意欲的にインタビューをしながら世界を回っていた。私は特にない、と答えていた。それは模範回答ではなかったが、私には特に夢はなかった。今何をする、次に何をする、というその日暮らしの積み重ねがどこかに続いていくのならばよい。私はいつだってフワフワと浮ついて生きていた。
今回はタンガイルで働く日本人の家に世話になることにした。私は彼女のことを敬愛の意味を込めてねえさんと呼んでいた。ねえさんのこしらえた夕食はうまく、冷やした麦茶によく合ったが、私はビールを持ってこなかったことを激しく後悔した。どうしていつも旅をするときに酒を忘れるの?それはこの国のバス移動が過酷だからだ、それは言い訳になるの?いや単に面倒なだけか?と私は眠りにつきながら自問自答を繰り返していた。

翌朝もピーカンの晴れの日だった。寝起きの悪い私はぐずりながらなかなか起きずねえさんを手こずらせた。ねえさんごめんなさい。その日はあるNGOの事務所と、そのNGOの運営するノンフォーマル教育の寄宿学校へ行くことにした。学校で体育を教えている先生が付いてきてくれる。
CNGがなかなかつかまらず、私たちはテンプー(乗合いのピックアップトラック)に乗り込んで頭を屋根にガンガンぶつけながら学校へ向かった。
メインロードを縁取る木々の向こうに田んぼ、田んぼ、畑。こちら側には田んぼ、畑、民家民家。牛が草をゆっくりと食む。
その光景に既視感を覚えて空を仰ぐと、木々の彼方にみやる今日の空はしろっぽい。こんなに晴れて、でも不思議とこんなにしろっぽい。
1年としばらくをバングラデシュに過ごして、あちらこちら田舎を旅してきた。どこも何の変哲もない田舎の風景だったけれど、村ごとに町ごとに色が違う気がすることにそろそろ気づいていた。村ごとに町ごとに川の水の成分や季節風の関係で空気の色がちょっとずつ違うのか。それともその時期の私ごとに涙の成分や言葉の風向きがちょっとずつ違うのか。
書こう、と私はそのときゴトゴト揺れるテンプーの中でやっと思ったのだ。だってこんなにも微細な色の違いに気づいてしまったのだ。外縁から始めて、ダッカにたどり着くまでは書こうじゃないか。
市街地からしばらく走った街外れに寄宿学校はあった。いかめしい門をくぐると大きい緑の校庭が開ける。街外れにあるだけあって敷地は広い。校舎は校庭のはるか奥だ。
バングラデシュ津々浦々シリーズその6 – 水と土のこと(識字について)

2012.5.28
見渡せる限り海のような開けた川だった。
日差しを遮るものはなく、筏にエンジンを付けたばかりの、はしけほど平たい小舟はすっかり空にさらされている。小舟のへりに座る小母さんは真っ黒なコウモリ傘を私の肩越しに差しかける。
私は雨季の川の上にいた。川の中洲にある小さな島に学校を訪ねて行くのだ。
バングラデシュは川の国と呼ばれる。雨季に増水して自在に膨れる川に抱かれ、中洲に浮かぶ小島は左右上下を削されて肩身を狭くしている。
本土から小舟でわたるのにゆうに1時間を要する、ここは離島だ。日本の離島のようにぽつんと大海原の中を取り残されているというのとは違う、右も左も上も下も本土で囲まれた、それでもれっきとした離島だ。
離島ということで行き届いていないサービスはいくらでもあり、そのひとつに教育があるという。先生不足。教材不足。学校不足、制服不足。
このNGOが行なっているのは識字教育と女子学生支援だった。
図書館の設置で有名なこのNGOの代表に言われたのは、
「この国には図書館を作る以前の問題があるんです。本を読む習慣がない。読み書きができない。図書館作りもやっていますがそんなのは後です。今度一緒に離島に行きましょう」
だった。