旅人の資格10.孤独
「あんまりだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられない」っていうけれど、自由の崇拝は孤独への依存だと、私は思うんだ。スナフキン。
自由っていうのは、匿名性への脱出のことだ。
「だれもしらない町へきた」「私のことを、みんなしらない」
Into the Wildで、主人公のアレックスは旅の初めに名前を捨てる。 自由を求め、孤独を求め、誰も知らない町から町へ、アメリカを北上してアラスカに行き着く。
「世界を訪ねて2年間。電話もなし、プールもなし。ペットもなし、たばこもなし。僕は自由だ、究極に自由だ」
「僕は過激派、耽美主義の冒険者。故郷は旅の内にのみ」
“Two years he walks the earth, no phone, no pool, no pets, no cigarettes. Ultimate freedom. An extremist. An aesthetic voyager whose home is the road”
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その1.
『まあ、きっとなにかがどこかへ連れてってくれることでしょう』
最初の国は、フランス領ギアナだった。
ブラジルから小舟で15分、川を渡った向こうはヨーロッパ。なんて嘘のような本当のような国は、うっそうと茂った緑のにおいでいっぱいだった。
夜行バス明けのねむい目をこすりながら、ヒッチハイク。 送ってくれた家族の家でお昼をごちそうになって、緑につつまれた扉のない家はとても風通しがよい。私はねむい。ここ、どこなんだろうね。赤道直下、蒸し暑いね。
家族の名前はもう忘れてしまった。
その日の宿はクールーという、ロケット基地のある町で、次の打ち上げはソユーズだけど1週間後ということだった。ロケットの孤独はいつも秒速5㎝とセットだ。
ハンモックを張れる宿を探したら(物価が高いから)、ごみ溜めの上に立てた掘立小屋に通された。お腹が痛くて不安になって、私はひとりで来たことを少し後悔した。帰りたいなあ。でもどこに。
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その2.
『この世界に、ほんとうに私はひとりきりなんだろうか?』
次の国は、スリナムだった。
ドミトリーや共有スペースに、ひとりでめざめるときの、世界に自分ひとりしかいないような感じは、あのやるせない感じは、あれは何なんだろう。宿の共有スペースにハンモックを吊ってねむりながら、朝めざめるたびになんだかせつない気持ちになって、そのせつなさがなんとも心地よかった。
ひとりでいること。だれも私のことなんて知らないこと。次の日にどこに行くかもだれにも知らせてやらないこと。
宿の漆喰からは寮のにおいがする。
首都のパラマリボは整然としたおだやかな町だ。ユダヤ教のシナゴーグとイスラム教のモスクが隣に並んでいるくらいには。 いや、うーん、おだやかなのかな。へんな町なんじゃないかな。
インドネシア系の人口が多くて(旧オランダ植民地つながり)、ナシゴレンが食える。華僑も多くて点心が食える。スリナムでナシゴレンと点心を食っている間に気づいたら1週間が経っていた。
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その3.
『ここはアフリカですなーこりゃ、ってにおい。腐った果物のにおい。川のにおい、ごみのにおい、どぶのにおい。スパイスのにおい。太陽も暑い』
3つめの国は、ガイアナだった。
首都のジョージタウンは、カレーの食える町だった。黒人音楽がガシガシ流れていた。インド系とアフリカ系の拮抗する国なんだって。
スターボロック市場のまわりにはたくさんのジュース売り。アフリカ系のおばちゃんたちが年甲斐もなくキャッキャしてる。それを写真に撮る。「あんた、かわいいねえ!」
ぶうんとバイクの排気ガス。インド系のおっさんの怒号。「チャイナ!チャイナ!おまえだよ、そこのおまえだ!」そのままデリーまで連れていかれそうな、時空の穴の音。
夜になると太ったアフリカ系のおばちゃんが、宿の下の場末でビール瓶を投げてよこした。瓶底がバーカウンターに歯向かって、がりんという。「ちょ、割れるべ!」「No worries!」
インドとアフリカのにおいは、カレーにビールでほろ酔いの鼻にもしつこく、つんと突き刺さる。誰かと話しているようで、誰とも話していない気がする。
私のなかみと町の喧噪を隔てるものは肌の一枚もなくって、境目は、いつもあいまいだ。私のなかみには名前はなく、ここはどこでもよい。だれも知らない町で、だれにも知られないまま、「ある旅人」は歩き続けるほかない。
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その4.
『ひとりが終わってしまうのは、さみしい』
最後にベネズエラに飛んだ。
ベネズエラは検問が厳しいと聞いたから、ブラジャーの中・タンポンケース・隠しポケット・靴下の中に、米ドルを分けて入れていたのに、チェックは皆無だった。たまたまなのかな。でも、ひと命もうけた。波乱がなくて物足りないくらいだ。
『空港内で身なりのいいおじさんを見つけて声をかけ、両替をしてもらうというのが、完全にRPG。鍵を知り、鍵を嗅ぎつけ、鍵を見つけて開く旅』
夜の空港の床に横たわりながら、RPGの仮想現実に生きているような気持ちがぬぐえず、クスクスと笑う。エレベーター裏のうす暗い長椅子の上に、マットを敷いてねむりながら、クスクス。誰も私の笑いに気づかない。私はここにいないのかもしれない。でもそれもなんか、楽しい。
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ギアナ3国を回る私の、当時の日記帳を見ながら胸がどきっとしたのは、そこに腐りかけの自由を見たからだった。いやあ、やばいでしょ、病んでるでしょ私。今になって思う。
そのころ私を浸していたものは、それは名前を失うことへの快楽であり、孤独への依存であった。
「僕たちは誰かと一緒にいたがるけど、ずっと一緒ってのには耐えられない。だから外に繰り出してわざと迷子になって、帰っては、また出かけるってのを繰り返すんだ」
“We like companionship, see, but we can’t stand to be around people for very long. So we go get ourselves lost, come back for a while, then get the hell out again.
Into the Wildでは、匿名の世界に逃げ出してひとりの世界にこもったアレックスが、今度は匿名性から脱出するのか、しないのかがテーマのひとつになっていた。
旅を終えた私はねころんで映画を見ながら、身体じゅうにひりひりとした痛みを感じていた。「ある旅人」の闇の中に入った私は、自由を崇拝するがゆえに自由を失うのだろうか?
私は名前を、取り戻すのだろうか?