旅の反省文(その5)

旅人の資格5.反省すること

旅人はどこまで行けるのか。答えづらい問いである。

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西アフリカを旅しているときに、マリに行った。
マリといえば、どこそれ、が一般的な反応で、泥のモスクを連想するのがマニアックな反応。そんなとこ行って大丈夫なのと、心配するのも正しい反応。
北部でフランス人が誘拐されて殺されたのが2011年末だった。2012年にクーデター。2013年、北部にフランス軍事介入。
でもマリは大きい国だから、国の中でも危険度はかなり違う。 国の北半分は赤(退避勧告)、その他は濃い橙(渡航の延期をお勧め)、首都周辺のみ橙(渡航の是非を検討)、というのが、外務省危険情報の色分けである。

私が行ったのは2013年の8月21日から26日の1週間。当時のマリは、ちょうど選挙が平和裏に終わったばかりで、情勢は安定していた。
セネガルからブルキナファソに行くときに、飛行機で飛ぶよりもマリ経由の方がスムーズに行ける(ビザ取りの関係で)、というのがマリに行くことを決めた理由だった。
ヨーロッパからの観光客も少しずつ戻っていたし、日本人の友人もひと月前に1週間の旅行を無事に終えていた。移動や宿や歩ける地域など、詳細な情報ももらっていた。
同時期には他にも何人か旅人がいたし、隣国ブルキナファソには友人が住んでいるし、BBC情報を注視していても町は穏やかなようだった。
これらの条件の一つでも欠けていれば、私はマリに行かなかったと思う。

とはいえ、最大限の情報収集をしても、それはしょせん個人の力の範囲だ。リスクは常につきまとう。 そして、リスクと一緒につきまとうのが、自己責任論などのバッシングに対する不安だ。バックパッカーが怖いのは、現地の治安よりも日本でのバッシングなんじゃないかと思う。

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首都のバマコから、隣国のブルキナファソに抜ける国境越えのバスには、北東回りルートと東に直進ルートがあった。
北東回りルートだと、バスは危険度の高い地帯(赤)をかする可能性がある。東に直進なら、1ランク安全にな(濃い橙)。
私は途中で泥のモスクという観光地がある村を経由したところ、北東ルートで国境を越えることになった。
バスを乗り継いでいる間、例えようのない不安に襲われた。もしここで何かがあったら私は袋叩きだろう。インドでも、トルコでも、ルーマニアでも蜂の巣なんだから、マリなんて大変なことになる。
バスがブルキナファソに着くまで、生きた心地がしなかった。

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私たちはいざというときには「邦人保護」を受けることになっている。本当にありがたいことに。(それは保険にも似ていて、たしかに、払う税金は同じでも、リスクの多い場所に行く人ほど保険の拠出を受ける可能性が高い、それってフェアじゃない、と思う人もあるかもしれない
日本人として邦人保護を受ける可能性がある以上は、外務省が引いたラインを意識する必要は常にある。
外務省の危険情報は、守ること。そのとおりです。

だから、マリの国境越えに関してはちょっと行きすぎたかもしれないと思っている。結果何もなかったけど、赤い地帯をかするかもしれないルートは取るべきではなかった。反省していますマリのほかは、引かれたラインを守って旅をしました)。

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そういうわけで、「アフリカをバックパックで旅しました」に対する
「え、大丈夫なの」「いつ袋叩きになってもおかしくないよ?」
を受け流すこともできずに聞いていたのだけど、
どうやらその反応は、私がマリ中部(という国が安全サインを押していない地帯)を通ったからではない、ということに気づいてきた。自己責任論全盛期の、今年の頭である。

インドネシア・ラオス・フィリピンに行きました」「イイネ。海きれい?山きれい?」
「カーボベルデ・ボツワナ・セネガルにも行きました」「え、どこそこ、危なそう。何かあったら大変だよ」
前者より後者の方が、(危険情報の上では)もっと安全なのに、反応はまったく逆だ。
危なそうなところへ行くのは、もうそれだけで「いつ袋叩きになってもおかしくないよ?」なのだ。
そして、危なそう、という反応は、危ないから、なのではない。知らないところだから、なのである。
カーボベルデって聞いたことある?」「ないない、なにそこ、怖そう
知らない国をおそれるのは、それはただの無知なのに。

そして質問は続く。
「ってか、なんでそんなとこに行くの?」

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限られたリソースを宇宙開発に使うことが禁止され、人類みんなが農業をして、明日の食べるものを育てなければいけない、という近未来が、インターステラーで描かれていた。
その世界では、ちょっとの冒険だって、許されない。「だって夢は食えないだろう」と。そのとおり。夢は食えない。

旅も同じだ。
「え、なんで、旅なんてするの?」「なんのために、行くの?」「目的は?」
知らないところに行くには(かつ、行って何かあったときにバッシングされない程度に「社会」を納得させるためには)、意味という通行手形が必要なのである。
いやいやー。と私は思う。旅なんて何の意味もなくていいじゃないかー?

旅は、意味あるものが溢れている世界からの、逃げ場であっていいのじゃないか。それはある種の希望でもあるのじゃないか。
たくさんの通行手形をゲットしてから、意味のあることだけやって生きてくだけでなくても、いいよね?
意味のないことをする人もいたって、いいよね?それは世界中が「意味あるもの」で埋め尽くされた後にもすこし残ったすき間のようなもので。
いつか役立つかもしれないし、いつになっても役立たないかもしれないけど。

たとえば、冬山に登る。たとえば、海底に潜る。たとえば、宇宙へ飛ぶ。
たばこを吸う、泥酔する、コンクリートの上で寝そべる。雨の日に、傘をささずに空を仰ぐ。こういうのはみんな、似ている気がする。それは本質的に、意味を求めねくてよい、何か

最後のラインを守っている限り(いや、多少のラインは越えることがあっても)、意味なさそうことだってすこしくらいは許してくれないかなあ、と私は思う。
すき間がない世界は、ちょっと苦しいんです。

そう思う気持ちは、危険の少ない「こっち側」に戻ってきた後も、変わっていない。私がいっとき「あっち側」にいたから正当化したいというのではなくて。
それは、もっと、なんか、切実な、ちいさな「許容」を求める思い。

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旅人はどこまで行けるのか。答えづらい問いである。でも答えづらいなりに答える。

旅はしょせんレジャーなので、旅人の分際では行っていいところとよくないところは存在します。

でも、旅はしょせんレジャーだからこそ、行けるところ/行けないところをガチガチにコントロールしたり、イメージトークで危なそうと決めつけたり、何かあったら自己責任といって一様に切り捨てたり、みたいなことはしないで、「ちょっとくらいの冒険してらっしゃい」の気持ちでやさしく見守ってくれたら、もっと旅を生きやすくなるなーと、思うのです。

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※「内」と「外」
おかげさまで、今回の旅で危険なことはなかったです。マリ中部も、本当に穏やかでした。観光客は少なかったけれど。
泥のモスクのおじさん「日本という国は危ないんだろう?フクシマとか、放射能とか。マリの方が安全だよなあ」って言ってた。世界中の人びとは自分の想像の及ばないところに関してはイメージトークなんだなあ。

旅人の資格、あと7つ。

 

※マリのはなし
町(泥のジェンネ)(2013.9.17)
移動(ほぼ待機、48時間)(2013.9.18)
※西アフリカのビザのはなし
ビザ取りパズル(2013.9.18)