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Bangladesh000-Gazipur(旧ブログ2)

バングラデシュ津々浦々シリーズその2 – 遠い未来のこと(ITについて)

2012.4.30

彼はもともとその職業において弁護士であった。著名なジャーナリストの息子として生まれ、幼少時代と青春時代をダッカで過ごしたのち、アメリカのウィスコンシン州へ渡った。
私立のクリスチャン大学で学びながら(お金かかっただろう)、彼はアメリカに十数年を暮らし、アメリカ人の妻をめとった。そしてあるとき思い立って故郷のバングラデシュへ帰ってきた。彼はアメリカに見たバングラデシュの未来から、何かを持って帰ってきたかったのだ。

バングラデシュには治外法権のような場所が幾つかあるが、海外留学(・海外事業)帰り組と呼ばれる富裕層の一部がたむろす場所もそのひとつである。彼らはたいてい海外での市民権を持ち、ダッカのグルシャンに点在するクラブというものに属している。英米オランダ、ノルディック、そしてカナダにインターナショナル。
往々にして本国からの駐在員が孤独を紛らわすためにプールサイドでビールをあおり、市民権を持つバングラデシュ人が自分がかつていた国を懐かしんで羽目を外すための場所である。
彼も例に洩れず帰国後アメリカンクラブに登録し、そこで学生時代の友人(夫婦)と再会し、意気投合したのだった。

アメリカナイズされた彼らはSocialInnovationというような言葉に敏感であり、それらの言葉とそこから生まれるアイディアは、社会起業がもてはやされる昨今のバングラデシュに綺麗になじんだ。この敏感さが、ただのバングラデシュ国内の金持ちの視点とはひと味違うものでもあった(余談だがバングラデシュの金持ちは日本の金持ちよりもはるかに金持ちで、平気で高級車を13台持っていたり)。

そして、アメリカで見てきたバングラデシュにとっての「未来」であるもののいくつかをバングラデシュの現在に引き直して考えてみたある夜、彼らがコツンと行きあたったのはIT格差であった。
デジタルディバイドというやつをなんとかできないものか。都市と田舎の間の。階級の間の。所得の間の。年齢の間の。
もっと様々な層がアクセスできる媒体を作りたいという話から、今までITデバイスを見たこともない人たちが使えるようなタブレットを作ろうというところへ進んだ。アプリを内蔵したタブレット(iPhone二つ分くらいの大きさ)を農村の低所得層の女性たちに配るのである。

ただでさえ様々な分野の階層化甚だしいバングラデシュという場所で、ITに関する階層化はますます激しい。例えばダッカにはWi-Fiが通じるカフェがあるが、一歩ダッカの外に出るとそんなものは知る限り皆無だ。

バングラデシュ政府は2021年を目標に「デジタル・バングラデシュ」(IT産業発展や行政サービスへの情報通信技術の活用、人材の育成)を達成するという構想を掲げている。のだが、インターネット事情はイマイチだ。利用者は総人口の約2割(3100万人)に過ぎない(と偉そうにいっても、9462万人と世界第三位のインターネット利用者数を誇る日本だってWi-Fiに関していうと案外通じないガラパゴスだ)。

インターネット普及率がイマイチな一方で、この国の携帯電話の普及率は高い。国民の半数以上にあたる8800万人程が携帯電話登録をしている(それにインターネット利用に関してもモバイルからのアクセスが95%と、ここではパソコンではなく携帯電話を使ってインターネットに触る)。
ダッカも田舎も関係ない。この国の田舎で携帯電話を見かける確率は高い。田んぼの中で、交差点で、向かいのホームで路地裏の窓で踏切あたりで、みんな携帯電話を片手にしゃべり続ける。

思い返すと私が小学生のころは友人に電話をするにも実家のイエデンをダイヤルしていた。中高生になってポケベルやピッチが現れて、いわゆる携帯電話を手にしたのは高校生活も終わりに差し掛かるころだった。
だから私の中ではイエデン(―ポケベル・ピッチ)―携帯電話は歴史を経てつながるひとつの線だ。
ところがここは、イエデンの国ではなく、イエデンがきちんと普及したこともなく、イエデンをすっ飛ばしてモバイルの国なのだ。

パソコンもそうだ。言われてみれば日本では、元来インターネットはパソコンで操るという思い込みがあった気がする。今でも、パソコン端末からのインターネット利用者は8706万人と、モバイルからの利用者7878万人を上回る(とはいえパソコン・モバイル端末併用者も6495万人(2010年末))。
パソコンからパソコン・iモードの使い分けへ移った私の中でも、パソコンでネット―モバイルとパソコン併用でネットは歴史を経てつながるひとつの線だ。
でもここは違う。パソコンの国ではなく、パソコンがきちんと普及したこともなく、パソコンをすっ飛ばしてモバイルの国なのだ。

一足飛びだ。と思った。

この国に来たときから、なにかアンバランスな感触をおぼえていた。未来と過去が交錯していて混乱するような。
リキシャ(人力車)の横には高級外車が走っている。バイクは少ない。
旧ヒルズ族のような豪邸のルーフトップパーティーで艶やかなドレスを着た富裕層のおばさん「ご婦人がた」が踊り、そのすぐ外では民族衣装を着た物乞いのおばさんが路上で生活している。ハイカラさんはいない。

路上のおばさんに限らない。こちらでは女性の大半は民族衣装だ(私もだ)。南アジア最大級と言われる8階建てのショッピングモールには様々な店が構えていて、その中には洋服の店舗よりも民族衣装(女性の場合はサリー・サロワカミューズ)の店舗の方がはるかに多い。日本では渋谷の109に着物が売っているものか。せいぜい花火シーズンのギャル浴衣くらいだ。
そしてダッカのAWは那覇空港のA&Wよりキンキンに冷えていてWi-Fiも早いが、田舎に出るとそもそもハンバーガーが食べられる食堂なんて県庁所在地の数軒だけであとはどこもカレーだ。エアコンのきいている食堂も少ないしWi-Fiは前述のとおりもってのほか。中庸が見当たらない。白か黒かだ。ここは東京五輪の昭和ニッポンか(私生まれてないけど)、失われた10年の平成ジャパンだ。

「昭和40年代の日本」と呼ばれるバングラデシュの田舎に行くときには、大手電話会社のSIMカードを入れたiPadを持って旅をしていた。電話回線の農村カバー率が高いこの国では最強グッズだ。速度は遅いがどこにいてもインターネットができるというわけ。
バングラデシュ人のお宅にホームステイして、ガスも水道も電気もない家で夜中にネットサーフィンをしていると、ちぐはぐな状況に対する気持ち悪さがある。なんなんだろうこの気持ち悪さはと考えて気づく。私のステレオタイプな発想からすると、ガスも水道も電気もない家には何もない、べきなのだ。ネットサーフィンができる家は何でもある家である、べきなのだ。私が未来から持ち込んだiPadのせいで家の状況はアンバランスになってしまったのだ。そしてこの違和感の中にはなにか後ろめたさも含まれている。

さて話を戻して例のタブレットである。

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Bangladesh000-Bandarban(旧ブログ1)

バングラデシュ津々浦々シリーズその1 – 土地と外縁のはなし(アイデンティティについて)

2012.4.26

バングラデシュに短い冬が訪れたある朝、私たちはチッタゴン丘陵地帯の町バンドルボンへやって来た。ここはバングラデシュの東南部にあってインド・ミャンマーと国境を接し、モンゴロイド系の少数民族が住まう丘陵地帯。アラカン山脈の西のふもとにあって少数民族とベンガル人との間で未だ小競り合いが続く、山がちの美しい地域だ。

少数民族。と私は思う。

この国の人たちは、人懐こく外国人を質問攻めにすることで有名だ。「名前はなんだ」「結婚しているのか」「兄弟は」「仕事は」「給料は」「どこから来たのか」などなどなど。首都ダッカに住んで近所をうろうろしながら、私もときに同じ質問を返す。「そういうあんたはどこから来たのか?」
彼らはたいてい「俺の実家?パブナだよ」とか「うちはボリシャルだ」とかいう。「バングラデシュだよ」なんて殆ど言わない。
アイデンティティというものが人と違う自分としてのかたちやその外縁をいうのならば、どうやら彼らのアイデンティティというのは自分の田舎にあるようだ。

まあそれはそうだ。日本でガイジンに「どこから来たの?」なんて聞かれたら私は「東京」と答える。トルコで同じ質問をされたら私は「日本」と答える。トルコでも同じ質問に対して「僕はカリフォールニア出身だよ」などと答えるのは(一部の)アメリカ人くらいだ。アイデンティティというのは環境に応じて相対的なものである。気がする。特に田舎のコミュニティーのつながりが日本よりはるかに強いバングラデシュでは、いったんコミュニティーの枠を外され、バラバラの個体として共同体意識のうすいダッカへやってきたら、そのバラバラの環境の中で自分の色を見出さざるをえず、自分の持ち物の中でもっとも付き合いが深いもの、たとえばどっぷり浸かっていた田舎のコミュニティーの色を取り急ぎ自分の色とするのだろう。

ものの本を見ると、ここバングラデシュに住む人々のアイデンティティはベンガル人ナショナリズムの影響を強く受けたもので、これは(主にヒンドゥー教ベンガル人たるインド西ベンガル州との対比における)バングラデシュ国民(ないしイスラム教徒としてのバングラデシュ国民)としてのアイデンティティとは一線を画する、などと書いてある。
確かによそ者の目からは、そこここにある「ベンガルっぽいもの」がベンガル人としてのアイデンティティであるように映る。つまり「ベンガル人は自分たちの言葉を大切にするし、パキスタンからの独立のきっかけになったのも母語を守るための運動だった。今もその闘争の歴史はInternational Mother Language Dayに残されている」。(といってもこういった「ベンガル人らしさ」もここに住んでいる人のどれだけに当てはまるのかは実際のところよくわからない。もしかしたら一部の知識人層だけなのかもしれない。)

ちなみにベンガル人というのは教科書的にいうと「ベンガル語を母語とする民族集団でありバングラデシュの人口の99%を占めるが、その居住地域はバングラデシュにとどまらずインドの西ベンガル州などにもわたる」人々。つまり歴史的にベンガル湾沿岸地域に住んでサンスクリット語起源のベンガル語をしゃべってきた人たちの一部である。

さて、こういった「ベンガル人としてのアイデンティティ」をうたう論考は、バングラデシュの歴史がベンガル地方の歴史とセットで語られなければならないということのリマインダーでもあり、「バングラデシュ人」=「(イスラム教徒としての)バングラデシュ国民」などというステレオタイプに対する警鐘として一定の意味を持っていて、読んでいて腹に落ちる部分も大きいし勉強になる。

ただ。これすらも一種のステレオタイプであるような気がしてならないのだ。何かを見逃しているような気がする。
ベンガル人はここに住みながら本当に自分たちのことをベンガル人と思っているのだろうか?非ベンガル人の存在をその内側に意識することなしに?それともそれは自明すぎてみな口に出さないだけなのだろうか?

非ベンガル人である。
ベンガル人がこの国の人口の99%を占めるということは、1%の非ベンガル人がいるということである。この国はベンガル人だけの単一民族国家ではない。
何かを定義するのならばその外縁を見よとならった。ベンガル人を知りたいのならば、非ベンガル人を知るべきなのだ。

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仕事上がりに鍋を平らげるとダッシュで旅の荷物をまとめ、夜行バスでダッカを出てバングラデシュ第二の都市チッタゴンまで向かった。朝の6時半にバスを降りたときにはチッタゴンの街は歯がガチガチ鳴るほど寒かった。そこからローカルのバスを乗り継いでバンドルボンへ向かう。

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Bangladesh000-Dhaka

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バングラデシュは今回がラストになるかもしれない。
この場所は私にとってやはり特別な場所で、20代終わりの迷走に付き合ってくれた国であることは疑いようもなく、それゆえにここにおいて日常と非日常はよく入り混じって、私はいつも壺の中に在るような気持ちに陥る。ひんやりとつめたくて、過去と未来を鏡のように写し、ふれると指先の物体的な感覚を思い出させるような、壺の内側。
単に海外に逃がしてくれたという場所であるだけでもそれでも、住んだということは、1年通じて移り変わる風景を見たということはきっと何か特別な意味を持つことであって、私はその意味をよくよくまくって、久しぶりのダッカを暮すのだ。

2015.1.11

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というわけで、3年前に未完だったバングラのブログ(いま読むと長ったらしいですが)を移管しつつダッカで完結させようと思いますー。って、3年って!!